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2022年09月07日15:09

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歴史の物語(56) 原田伊織「官賊と幕臣たち 列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラートたち」毎日ワンズ2016

 1枚目 阿部正弘の開設した長崎海軍伝習所  長崎海辺のおきなブログより
 2枚目 島津斉彬の開設した集成館の反射炉
 3枚目 徳川斉昭の遺産というべき天狗党の乱と水戸藩の自滅 男の隠れ家ブログより 

 著者は1946年生、生まれたのは京都だが、育ったのは近江。浅井領内佐和山城下と元彦根藩校だった高校を経て、大阪外国語大学卒。
 マーケテイングの専門家。著書に「明治維新という過ち」など。


 老中阿部正弘の人材登用策によって幕末の徳川政権には優秀な官僚団がいた(筒井正憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆など。彼らが米国などとの開国のための条約交渉に当たっていた。
 さらに講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。
 軍事力の背景のないなかで対等な条約を作成することは容易ではない。彼らは長期的で国益に沿うべく、岩瀬忠震(ただなり)は、たとえ幕府は亡びても日本を滅ぼさないように注意していたし、小栗上野介は幕府が亡びても必要だとして製鉄所の建造に力を注いだ。
 欧米列強の方でも、日本を侵略する意図はなかった。幕府が外交と軍事力を、各藩が地方自治を担当して安定していると見ていたし、軍事力の方は幕府と各藩を合わせればかなりのものとなると見ていた。
 英国は清朝に対して麻薬攻勢をかけることで力を削いだ。それに対して日本に麻薬を売ることは不可能だった。しかし、その代わりになったのが貨幣の交換比率を日本に不利にする設定で、それによるインフレが幕府と国民を苦しめた。

 1.鎖国とは何であったか
 1)宣教師たちの目的
 スペインとポルトガル(南蛮人)宣教師(切支丹)とはイエズス会の宣教師だった。彼らは国王の庇護を受けてカトリックの布教のためにキリスト教の圏外にあった各地へ送り出されたのだが、その最終目的はその国の植民地化だった。結局、東アジアでは日本とタイ以外は植民地となった。清朝はアヘン戦争に敗れて列強の半植民地になってしまった。
 ★海風注:
 イエズス会 1534年にイグナスチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルらによって設立。元々、騎士だったロヨラは、プロテスタントに対抗する神(法王)の軍隊として、世界各地に厳しい規律に従う宣教師を派遣した。
 宗教戦争はヨーロッパ内だったが、それに続く植民地獲得競争は世界を巻き込むことになった。
 世界の植民地の二分割
 1492年にコロンブスが東回りでアジアに到達した(実際は中米のキューバ)ことで、ローマ法王は、ブラジルから東、アフリカを経て日本とオ―ストラリアの真ん中から西をスペインの植民地、それ以外の世界の半分をスペインの植民地と決めた。両国における紛争を避けるためである。実際には北アメリカにもポルトガル人が進出したし、逆にフィリッピンはスペインの植民地となっている。
 問題が起きたのは、この分割から外された英仏独蘭(仏以外はプロテスタント国)などであり、1543年種子島にポルトガル船が漂着して日本に進出するが、英欄も東インド会社を中心に(オランダ東インド会社1602年、イギリス東インド会社1600年)巻き返しを図ることになる。

 2)人狩の戦場
 応仁の乱で京都に足軽が出現して金持ちの屋敷などを荒らしまわったことは教科書にあったが、本書の著者によれば、そればかりではなく女子供を略奪して奴隷として売り払っていたとのことである。
 切支丹はそうした日本人奴隷を東南アジアの植民地に売り払っていた。つまりもともと日本には戦のどさくさを利用して奴隷狩りの習慣があって、後から切支丹もその売買に新規参入したのである。
 九州征服途中の秀吉は、キリシタンによる日本人の奴隷売買を見て、1587年にバテレン追放令を発令した。これが徳川幕府による「鎖国政策」に引き継がれることになった。
 ★海風注:本書の著者によれば、関が原の戦いの敗者が始めたとされる倭寇の目的も奴隷狩りだったとのこと。
それで納得したが、元寇の時に元軍は対馬などで百姓たちを虐待し、手に穴をあけてそこに鎖を通して捕虜にした者を繋いだとのことだった。あれは虐待というより奴隷を船に乗せて連れ去る場面だったわけである。
 要するに、奴隷狩りはアフリカとアメリカ南部のことだけではなく、世界的な商売であり、日本も例外ではなかった。また、江戸時代や昭和戦後まで貧乏な家族を救うため若い女性が娼婦・芸者として身売りすることがあったが、幕府が奴隷売買が禁止したのちに残された形態だったようだ。これは意外な指摘だった。

 3.幕府の対外協調路線
 捕鯨船の寄港する港を要求したペリーと交渉に当たった全権は大学頭・林復斎だった。林復斎の父・林述斎は寛政異学の禁を推進したし、彼の三男が悪名高い鳥居耀蔵だとのことで、朱子学の林家は保守的な家柄かと思っていたが、述斎の六男の復斎は柔軟にペリーの要求に対応したとのこと。
 通商には応じないが、人道には仁をもって当たる。捕鯨船の寄港は受け入れるし漂流者がいれば保護すること。そのために函館と下田の港を開港することで日米和親条約を決着させた。
 ★海風注:なお、述歳の著名な門弟に佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)
 さらに、佐藤一斎の門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った有名人として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、中村正直など。

 ロシアとの交渉は川路聖謨
 ロシアは何度も開港を要求していたが、幕府は長崎へ回るようにはねつけていた。
結局、プチャーチンが長崎に来航し、彼との交渉に当たったのが勘定奉行兼海防掛の川路聖謨である。この交渉で国境線を画定した。
 ソ連は日本敗戦後北方諸島を占領し、いまだに返還していないというより、それを疑似餌にして日本からの投資を誘った。日本政府はソ連・ロシアに振り回され続けている。幕末の幕臣たちの方がよほど有能で、タフな交渉をしたのである。

 阿部正弘は老中筆頭の座を佐倉藩主・堀田正睦にゆずり自身は次席老中として残った。その堀田正睦は蘭癖大名として有名だった。蘭医佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂(今の順天堂大学)を開設した。また、明治になってからだが、洋学者・津田仙は娘の幼い梅子を米国に留学させた。彼女が津田塾大を創設している。
 ★海風注:佐倉市は印旛沼のほとりにあるが、今、城跡に国立民俗学博物館(東大系)がある。これは大阪万博跡地に開設された国立民族学博物館(京大系)に対抗したものだと思うが、いずれにしろ佐倉の開明性は今に続いているようである。

 阿部正弘の評価と失敗
 日米和親条約を締結し対外協調路線を開いたこと。優秀な官僚群を成立させたこと。
失敗は広く意見を諮問するという名分で、外様大名に幕政参画の道を開いたこと、朝廷の意向を伺うという形で、大政委任の原則を破ったこと。これが尊王攘夷運動を激化させるてこになった。

 阿部の後を受けた堀田は1858年に勘定奉行の川路聖謨と目付・岩瀬忠震という外交問題のエース級を伴って、日米通商条約の勅許を得ようと上京した。
 朝廷は勅許を拒否したのだが、朝廷の回答は御三家以下の諸大名の意見も聞いて再度願い出よ、というものだった。だから全面拒否ではなく、可能性はあったのである。
 ★海風注:
 孝明天皇の2代前の光格天皇の時から、今風に言えば物言う天皇になって来たとのこと。となれば天皇側近も摂関家だけではなく、位は低いが情報通で弁舌に長けた岩倉具視のような人物も重用されたのでないかと思う。
 という状況を考えれば、徳川御三家に幕府反対派がいることはつかんでいて、その上で御三家の意見を聞くように指示したに違いない。

 この事態を打開するために井伊直弼が大老に就任した。
 井伊家は大老を出す4家のうちの一つ。尊皇と同時に開国(やむを得ない)派だった。大老として勅許を得る手続きを始めたが、水戸藩の徳川斉昭と尾張藩の徳川慶勝が反対した。

 それでも外交手続きを止めるわけにはいかない。ハリスとの交渉に下田奉行・井上清直を全権とし、岩瀬忠震を目付とし任命した。岩瀬は大学頭・林復斎の甥にあたる積極的な開国論者である。全権の井上も外国通の開国論者だった。
 明治のジャーナリスト福地源一郎(桜痴)は、この時に岩瀬の部下だったが、岩瀬は鎖国攘夷の臭気のないただ一人の幕府官僚だったとしている。
 井伊は勅許を得るべきとしていたが、やむを得ない時には調印して良いと許していた。井伊もアメリカと武力衝突して清のように領土割譲の事態はどうしても避けたかったのである。井伊直弼の歌「春浅み野中の清水氷いて 底の心を汲む人ぞ無き」。
 ★海風注:どこまで本当か知らないが、大河ドラマ「花神」では、下関戦争に英国に敗れた長州藩の代表として高杉晋作が、沿岸の島を使わせるように要求された時に、暗記していた古事記の神代の巻をいつまでも語り続けて英国代表をあきらめさせたというエピソードを描いていた。司馬遼太郎の原作にあったのだと思うが、本書を読むと、英国は口先で誤魔化せるほど甘い国ではないと考えざるを得ない。

 4.幕末日米通貨戦争
 通貨の交換比率を決めるためにハリスやオールコックと交渉したのは水野忠徳だった。
当時の日本の幣制は、1両=4分、1分=4朱。金貨で比較すると1両=4ドル、すなわち1分=1ドルになる。金と銀の交換比率では、国際的には金1グラム=銀16グラムだが、日本は銀が強く、金1グラム=銀5グラム。(当時、江戸では金貨だったが、商業の中心だった大阪は銀だったからでないか?)

 ハリスやオールコックは水野忠徳を苦手とした。水野が論理的で、恫喝が効かないからである。
 それに対して老中・間部詮勝は通貨の知識はなかった。水野のいない時に間部はハリスに、大名は通貨のことなど知らないと本音を漏らしている。結局、ハリスは組みしやすい間部を相手に日本に不利な1ドル=3分の交換比率を決めたのである。

 結局、このことで日本の金が猛烈に流出し、インフレとなって、幕府は財政難と庶民の恨みを買うことになった。幕府が崩壊した真の原因である。
 ★海風注:著者はハリスとオールコックが自身で儲けるために、幕府を恫喝して水野を左遷させ、この交換比率を押し通したとする。しかし、一方で、英国は薩摩・長州の反幕府側に味方していたとのことで、幕府の弱体化は当初からの狙いだったのかもしれない。

 5.官と賊(著者が言いたいのは、天皇を将棋の駒(玉)のように扱った官軍こそ賊軍であったということ) 
 幕府が対外協調路線に踏み切ってからは、尊攘激派によるテロリズムは激しくなり、安政7年(1860)年)井伊大老が水戸・薩摩のテロリストに桜田門外で殺害された。
司馬遼太郎は暗殺は嫌いだと言いながら、桜田門外の変だけは歴史を躍進させたと称賛している。しかし、安政の大獄とは吉田松陰のような扇動家がテロを推奨したことの対策なのである。松陰処刑の理由は、間部老中暗殺の計画を自白したことだった。

 英国と組んで密貿易をしていた薩摩と狙った相手国の分裂を誘導する英国
 イギリスのアジア侵略・植民地化の手順は、まず反政府勢力を創ることだった。
イギリス人もテロの対象にする尊皇攘夷派の薩摩・長州を裏で支援した。それに対して、幕府は対外協調路線だった。

 薩摩は密貿易で生きてきた。島津斉彬が洋式工場を作れたのも密貿易の利益によっている。薩摩が攘夷のために倒幕を藩是としたことはない。
 島津斉彬は阿部正弘とも近かった。娘を幕府に嫁がせているし、島津久光は藩内の急進派を寺田屋で上意討ちしている。

 イギリス留学から帰国した伊藤博文と井上馨は薩摩藩邸で小松帯刀の庇護を受けていた。この時、薩摩は第二次長州征伐に加わっていたのだが、裏では支援していたのである。両者を仲介したのは香港を拠点とするジャーディン・マセソン商会の日本支店というべきグラバー商会だった。坂本龍馬はグラバーの雇い人だったのんである。

 当時のイギリスはパーマストン政権だったが、彼は世界中で砲艦外交を展開した人物だった。アヘン戦争、幕府への動圧外交など
 しかし1865年パーマストンが急死し、後継内閣はラッセル首相、クラレンドン外相になった。イギリスの後ろ盾を失った薩摩・長州はそれ以上前には進めなくなった。
その結果、明治新政府の官僚の6−7割が老練な幕臣や藩吏になったのである。

 ★海風:まとめ
 1.尊王攘夷運動の震源地は水戸藩徳川斉昭と藤田東湖
 水戸藩士は率先して開国派の要人を暗殺していた。井伊大老をはじめ、慶喜の側近の平岡円四郎や原市之進など。最後は天狗党の乱を起こして自滅したのだが。
 一方で、斉昭は開国反対の書簡を孝明天皇に送っていた。
 今でいえば政府与党の中心部で分裂していたようなものだろう。
 ところが、明治維新となった時にそれまでの攘夷をあっさり捨てて開国で統一したのである。福沢諭吉はその転向に驚き、冷たく軽蔑したのだろうが、島崎藤村の父のように期待が外れて狂った人もいた(夜明け前)。
 真意の分かりにくい西郷は別としても、また水戸藩は事実上滅亡状態だったが、攘夷の武市半平太を処刑した土佐の山内容堂は公武合体派。藩政の実権を握っていた薩摩、長州の攘夷派も本気ではなかったに違いない。というか伊藤博文や井上馨のは若気の至りだったに違いない。
 1977年の大河ドラマ「花神」(原作・司馬竜太郎)では、若く身分の低い伊藤が親分の高杉晋作に、なぜ外国との交易がダメなのか質問していたが、高杉は時期が悪いと答えただけだった。(つまり作者の司馬にも分からなかったわけだ)
 それでも明治政府が成功したのは、肥前(西洋技術には熱心だったが、あまり攘夷と関係なかった)の大隈重信が旧幕臣の実務官僚をまとめて実績を上げることができたからに違いない。

 2.日本に開国を要求していた英国が中心となって薩摩・長州を支援していた。
 本書の著者によれば、政権反対派を支援して社会不安を起こすのが英国の定石だったとのこと。つまり、これが「分断して支配する」ということだろう。
 薩摩とグラバー商会の密貿易があったので、薩摩の支援は英国の利益でもあった。
 ジャーディン・マセソン商会の社員が独立して長崎に開業した会社が、武器商人のグラバー商会である。ジャーディン・マセソン商会は英国東インド会社の系譜を引き、広東省の省都広州市(近くに香港がある)に本拠を置いて、違法なアヘンの販売と茶の輸入を主力として、アヘン戦争の原因を作った。今も世界的企業として存続しているとのこと。

 3.討幕は西郷が主導したに違いない。
 本書の著者はそこまで踏み込んでいないのだが、武力倒幕か公武合体かを決める最後の会議で、西郷は公武合体派の山内容堂などをテロで脅して黙らせたとのこと。
そもそも幕府には薩摩の篤姫や孝明天皇の妹の和宮がいたのであり、彼女たちはいわば公武合体の証人のようなものだったはず。
 結局、官軍が江戸へ向けて進軍を始めると篤姫や和宮は江戸で戦いを起こさないことを願う嘆願書を書き送っている。
 結局、慶喜に交渉を任され、戦いになるのを覚悟した勝海舟との対決では、ほとんど何も言わず慶喜の江戸城退去・謹慎で妥結した。西郷がほとんど何も言わないのを、まるで人格者のように讃える戯曲があったが、それが西郷の偶像化を進めることになった。実際は、交渉することがなかったからなのである。
 西郷は西洋技術の習得に勤めていた島津斉彬を崇拝し、僧の月照と心中を図ったり(西郷は助かり、月照は死んだ)、江戸で火付け強盗することで挑発したり、テロを駆使し、儒学道徳を実践し、庶民的で柔和で、身辺は清廉潔白で、同僚の贅沢三昧を苦々しくみて、最後に自分が育てた部下を道連れに反乱を起こした。どこに本心があるのか何も言わないので誰にも分からないので、かえって美化し偶像化できたのだと思える。
 明治政府の実権は旧幕府の実務官僚が握ってしまったわけで、彼の部下たちを満足のいくように処遇できたのか? 長州の場合、奇兵隊が処遇を求めたが、親分の高杉が死んでいたので弾圧できたわけだが。「朝鮮征伐」は部下の処遇を目的としていたのではないか?

 最後に、本書の著者は明治の尊王攘夷運動が成功したことで、昭和戦前の軍部の独走(昭和維新)が起きたとするが、私海風は別の事態だと考える。なぜなら、昭和維新を唱えた青年将校たちはロシア革命とスターリンの5か年計画の成功を信じ、あこがれていた。トルコのケマル・パシャの革命にもあこがれた人物もいたが。
 いずれにしろ、北一輝をイデオローグとして、反資本家・親計画経済を推進しようとしていた。


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