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2022年07月18日08:33

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戦略論29〜西洋文明の軍事思想

(3)西洋文明の軍事思想

 次に、西洋文明の軍事思想を概説する。

●ユーラシア大陸における「文明の衝突」

 最初に、ユーラシア大陸における戦争の歴史について述べたい。
 古代からユーラシア大陸では「文明の衝突」が繰り返されてきた。「文明の衝突」は、国際政治学者サミュエル・ハンチントンが米ソ冷戦の終結後の現代世界について用いた概念である。だが、人類の歴史は、古代から諸文明の発生、出会い、交流、その中での盛衰興亡の過程だった。その歴史は、また文明の衝突と戦争の歴史だった。
 本項は戦略論の基礎的研究のために、ヨーロッパの側から諸文明の衝突と戦争の歴史を、簡単に概観するものである。
 まず古代から、シナ文明と西洋文明が直接軍事的に衝突したことは、近代までなかった。ユーラシア大陸の東部と西部の間には広大な距離があり、またその空間には砂漠と山岳がある。こうした地理的条件が、両文明がぶつかり合う戦争を長い間、不可能にしていた。
 シナ文明と古代ローマ文明の間には、貿易・通商が行われていた。古代ローマ文明が滅亡した後、ヨーロッパはユーラシア大陸西端にある後進的な地域だった。西欧に発生したヨーロッパ文明は徐々に発展し、やがてイスラーム文明との間で十字軍による戦いを繰り広げるようになった。
 イスラーム文明は、7世紀初めにムハンマドがアラビア半島で開教したイスラーム教を宗教的な中核とし、西アジア、北アフリカ等に広がった。ヨーロッパの騎士たちは、13世紀当時、イスラーム地域に遠征するほどの武力を誇っていた。しかし、当時、ユーラシア大陸の内陸部に勃興したモンゴル帝国の強さは、圧倒的だった。
 モンゴル帝国は、13世紀初めチンギス=ハンによって建てられたモンゴル民族の帝国である。独特の軽装騎馬戦術・組織力・移動性を利用して、東はシナの東北部,西は南ロシアからイラクに至る大帝国をつくった。チンギス=ハンの死後、4人の子によって、キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イルの四ハン国が分立した。モンゴル帝国では、1271年に宗家の第5代フビライ=ハン(世祖)がユーラシア大陸の東部に元を建て、南宋を滅ぼしてシナ全土を統一した。その頃から四ハン国は完全に自立し、帝国は事実上分裂した。
 最盛期のモンゴル帝国の領土は、ユーラシア大陸の大部分に及んだ。モンゴル軍の強さは、当時の諸文明の間で抜群のものだった。ヨーロッパでは、怒涛のように押し寄せる騎馬軍団によって、東欧のハンガリーが占拠され、ポーランド・ドイツ騎士団諸侯連合軍も敗れた。1242年には、モンゴル軍が神聖ローマ帝国のウィーン郊外まで達し、ヨーロッパは恐怖のどん底に陥った。ところが、ここでモンゴル帝国の皇帝オゴタイ(チンギス・ハンの三男)が逝去し、モンゴル軍は撤退を始めた。もしオゴタイの死がなければ、ヨーロッパはモンゴルの征服・支配を受けたことだろう。
 イスラーム文明は13世紀にモンゴル帝国の支配下に入った。しかし、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。オスマン朝は、モンゴル帝国の解体により、イスラーム文明の中心となった。ヨーロッパ文明より軍事技術や農業技術では優れていたオスマン帝国は、強大化を続け、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。
 ヨーロッパは、長い間、オスマン帝国の圧力を受けた。圧力の頂点は16世紀前半、ルネサンスの時期だった。オスマン帝国のスレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲し、カール5世を危機に陥れた。しかし、例年より早い寒波の到来が、ヨーロッパ文明には幸いした。オスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、西欧は異文明の支配を免れた。1242年にモンゴル軍がウィーン郊外まで達した時も侵攻を避けられたから、これが二度目だった。オスマン帝国はその後も長く続いたが、第1次世界大戦を通じて解体された。
 モンゴル帝国、次いでオスマン帝国の侵攻を避けることのできたヨーロッパ文明は、新たな発展の時を迎えた。危地を逃れた西欧では、ポルトガルとスペインが地理上の発見によって、領域を拡大した。以後、オランダ、イギリス、フランス等が南北アメリカ、アジア、アフリカ等に進出した。まさに世界を分割する勢いだった。
 アメリカ大陸にも広がったヨーロッパ文明を、近代西洋文明と呼ぶ。近代西洋文明が本格的に世界的な優位を確立したのは、18世紀後半に産業革命が起こり、近代資本主義と科学技術が結合し、強大な生産力を発揮するようになってからである。その結果、近代西洋文明は、経済力と軍事力において、他の全ての文明に圧倒的な大差をつけるようになった。
 それが如実に表れたのは、1840〜42年のアヘン戦争でシナ文明の清がイギリスに敗れて、反植民地になったことである。アヘン戦争は、古代以来、シナ文明と西洋文明が直接軍事的に衝突した最初の戦争だった。1858年にはインド文明のムガル帝国がイギリスによって滅亡させられた。
 この間、西洋文明では、軍事技術の大きな進歩があった。銃砲の登場、蒸気機関の武器への応用、機関銃の発明である。これらの新しい武器を手にした西洋文明は、白人種による世界支配を実現した。
 以後の歴史については、本稿の折々で述べることにして、ここから西洋文明の軍事思想の話に入る。まず15世紀後半から20世紀はじめの世界大戦の時代の前までとして、マキャヴェッリ、クラウゼヴィッツ、ジョミニ、モルトケ、マハン、コーベットについて主に述べる。

 次回に続く。

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