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2022年07月16日09:16

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戦略論28〜武士道、そしてアヘン戦争から今日までの日本

●『闘戦経』と『甲陽軍鑑』を貫くもの――武士道

 『闘戦経』と『甲陽軍鑑』を貫くものーーそれは武士道である。『闘戦経』は、平安時代末期、11世紀末から12世紀初めに成立したとみられる日本最古の兵法書であり、武士道に関わる書物としては、最も早い時期のものである。一方、『甲陽軍鑑』は、その約500年後、江戸時代初期に書かれた書物である。この間に大きく発達したのが武士道である。武士道には、日本固有の軍事思想が表れ、またそこに戦略思想も含まれている。
 日本の武士は世界にもユニークな存在である。その武士の特徴として、第一に皇室から分かれた貴族の出身であること、第二に戦闘のプロフェッショナルであること、第三に土地に密着した為政者であることがある。これらの特徴は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応する。
 こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出した。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになった。それが、武士道である。
 武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れている。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄である。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本独自の精神、日本精神である。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れている。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花・向上した。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのである。
 武士道というと、多くの人は『葉隠』を語る。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一句はあまりにも有名である。しかし『葉隠』は佐賀鍋島の地方武士の作であり、書かれた当時、それほど社会的影響を与えた書ではなかった。これに比し、江戸時代の武士たちに広く読まれたものの一つが、『甲陽軍鑑』である。またそれ以上に武士道の規範とされて、さまざまな藩で読み継がれた書に、山鹿素行の『武教全書』、大道寺友山の『武道初心集』等がある。
 大道寺友山は、『甲陽軍鑑』の編著者・小幡景憲や、その弟子山鹿素行らに師事した。『甲陽軍鑑』『武教全書』『武道初心集』等は、江戸時代の武士が実際に学んだ武士道の教本である。江戸時代における武士道の形成には、武田信玄の甲州流軍学が強い影響を与えたことが、このことからもわかる。
 武士道を世界に知らしめたのは、新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』だが、新渡戸は武士道の道徳的な側面を強調し、武士の本質の一つである「武」の部分を軽視した。そのため、彼の武士道論は武士道の軍事思想が抜け落ちている。だが、武士は戦闘のプロフェッショナルであり、武士道を語るには軍事思想を欠くわけにはいかない。
 武士道の軍事思想、またその戦略思想は、『闘戦経』『甲陽軍鑑』の他に『武教全書』『武道初心集』等にも含まれている。だが、江戸時代の武士道の書物は、武士の心得、文官的な道徳、日常生活の仕方、仁政のあり方等が内容の多くを占める。太平の世にあって、異民族の外敵の侵攻を想定した防衛理論は発達しなかった。そのため、戦略思想として最も必要な現実的な脅威への具体的な備えを説くものとなっていない。

関連掲示
・マイサイトの「武士道」のページ
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind09.htm
 拙著『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)の付属CDにも収納

●アヘン戦争から今日までの日本

 徳川家康が開いた江戸時代は、世界史に稀な平和は時代だった。外敵の侵攻を受けることがなく、島原の乱以降、約230年の間、内戦もなかった。そのため、軍学は実戦の機会を失い、武士たちは道徳的な行動を期待される文官的な官僚となっていた。
 そうしたわが国に19世紀半ば、突然、強い衝撃が走った。アヘン戦争で、シナ(清国)が英国に敗れたのである。それまで日本人にとって、シナは世界の中心的な存在だった。そのシナが西洋に敗北を喫したことは、世界観が揺らぐほどの大事件だった。この時、この衝撃を最も強く感じ、行動した日本人には軍事や防衛の専門家すなわち兵学者が多かった。信州・松代藩の兵学者、佐久間象山(ぞうざん)はその一人である。象山は、シナの敗北を知るや、白人列強の侵攻の手は、必ずわが国に及んでくる、といち早く予見し、それまでの儒学の観念世界を破り出て、自ら西洋の科学技術を学び取った。白人に征服・支配されないためである。
 象山は、朱子学を信奉していた。彼の最も有名な言葉は、「東洋道徳、西洋芸術」である。彼のいうところの「東洋道徳」とは、儒教的な道徳だった。孔子が説いた「仁」「忠」「孝」等の徳目の体系である。象山は、孔子の理想は、わが国の皇室を中心とする国柄に実現している、だから、これを守らねばならないと考えた。こうした道義国家・日本を守るために、「西洋芸術」すなわち西洋の科学技術の摂取を焦眉の課題とした。
 象山が西洋の科学技術の修得に努めたのは、武士として日本の国を守るための行動だった。象山が拠り所としたのは、『孫子』である。『孫子』は、「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」といい、相手を知り己を知ることを勝利の要諦とする。また、「百戦百勝は善の善なるものにあらず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」とし、戦わずして勝つことこそ、最高の道であると説く。象山は孫子の兵法に基づいて西洋列強に学び、相手から科学技術を採り入れて我が国の国防力を強大にし、相手に侵攻をあきらめさせることを目指したのである。
 象山の弟子に吉田松陰がいる。松陰は、武田流軍学の系統を継ぐ山鹿素行が開いた山鹿流兵学を修めた軍学者だった。松陰は、象山の危機意識と課題を自らのものとし、国防の強化を目指して行動した。国禁を破って渡米しようとしたのは、『孫子』に従って敵を知るための決死の行動だった。彼の思想と行動は幕末の草莽の志士たちに強い影響を与え、明治維新を実現する推進力の一つとなった。
 幕末には、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス等の列強の艦船が我が国を訪れ、開国を迫った。軍事力や科学技術力で圧倒的な差を見せつけられたわが国は、不利な条件で開国せざるを得なかった。だが、それによって、インド文明やシナ文明のように植民地や反植民地となることなく、独立を維持し、近代国家の建国に成功した。
 明治政府は、西洋諸国から教官を招いたり、教範を翻訳するなどして、近代西洋文明の戦略・戦術を学び、富国強兵を進めた。西洋一辺倒ではなく、シナ・日本の兵学書の伝統を継承した独自の戦争理論を発達させた。それが、日清戦争・日露戦争での勝利に貢献した。だが、大正・昭和と時代が進むに従って、国家指導層は近代西洋文明の軍事思想の影響を強く受けるようになった。特に陸軍にはドイツの戦略・戦術の影響が顕著であり、国家指導者の多くを独伊のファシズムの模倣に向かわせた。
 昭和天皇は、大東亜戦争の敗戦後、1946年(昭和21年)3〜4月に、側近に対して、自ら歩んだ時代を語った。その記録が『昭和天皇独白録』(文春文庫)である。昭和天皇は歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていた。最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことである。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入した。結果は、大敗だった。
 天皇は『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べている。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘している。
 昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしている。

 「敗戦の原因は四つあると思う。
 第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」

 敗戦の原因の第一に、兵法の研究が不充分であったことを挙げ、『孫子』の「敵を知り己を知れば、百戦危からず」という根本原理を体得していなかったと指摘している。そこに敗戦の根本原因があると見ている。先に書いた象山は1850年代から、『孫子』に基づいて西洋列強の侵攻に備え、日本の国防に取り組んだ。その後、開国、維新、近代国家建設、日露戦争、日中戦争、大東亜戦争があった。西洋列強との対決は、大敗に終わった。象山の取り組みから約90年後、昭和天皇は、象山と同じく『孫子』に基づいて、約1世紀の歴史の結果としての日本の敗戦の原因を看破している。「兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと」と。
 昭和天皇が続いて挙げる第二から第四の原因は、わが国の国家指導層の問題点を指摘したものである。「余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと」「陸海軍の不一致」「常識ある首脳者の存在しなかった事。・・・大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」。それらもまた『孫子』が敗北の原因となるものとして挙げている事柄である。彼我の国力を客観的に比較・評価する姿勢がなく、国内に対立・不一致があり、大局をとらえて全体を統率する優れた指導者を欠いていた。
 私は、これらの昭和天皇の指摘に敬服するとともに、昭和戦前期の日本は、日本文明独自の軍事思想である『闘戦経』『甲陽軍鑑』の教訓からも外れていたと考える。さらに言えば、それらに現れた日本精神を忘れ、佐久間象山が守ろうとした東洋の知恵をも失い、近代西洋文明、とりわけ独伊のファシズムの模倣に走ったことが、大きな敗因と考える。そして、決定的なのは、あらゆる分野に通じる達人にして孫子の兵法の真髄をも極めた大塚寛一先生が建白書を送って「厳正中立」「不戦必勝」の大策を建言したにもかかわらず、時の指導層はこれを採用しなかったことである。(註 4)
 大東亜戦争に敗北したわが国では、GHQが日本を弱体化する政策を強行し、憲法第9条に、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が規定された。さらに政府が専守防衛や非核三原則を国防政策の根本に置いたため、自縄自縛の状態に陥っている。
 19世紀後半以降、欧米を中心に機械工業の発達とともに新しい武器が次々に登場し、戦争の規模は拡大する一方となっている。機関銃、戦車、潜水艦、飛行機、毒ガス、細菌兵器等が登場し、核兵器の発明によって。武器の発達は一つのピークに達した。さらに、コンピューターの軍事利用によって、軍事的な手段は高度化を続けている。この間、2度の世界大戦が起こり、世界平和への希求は切実なものとなっている。しかし、人類は戦争の歴史に終止符を打つことができるのかどうかは疑わしい。
 わが国は、こうした世界にあって、周辺を中国・北朝鮮・ロシアのような軍事偏重の国家に囲まれている。また、国際社会は米中が対決する歴史的な段階に入っている。いま(2022年7月現在)世界は、ロシアのウクライナ侵攻によって、第3次世界大戦への発展や核兵器の使用が懸念される危険な状況になっている。
 わが国は、国民一人一人が、国家とは何か、国益とは何か、日本をどう守り、いかにして危機を生き抜くかについて真剣に考えなければならないところに来ている。本稿の国家論及び戦略論・地政学の基礎的研究がその検討の参考になれば幸いである。


(4) 大塚先生の建白書については、下記をご参照下さい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/keynote.htm
【その2】「大東亜戦争は、戦う必要がなかった」

 次回に続く。

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