大東亜戦争は、昭和天皇の決断によって終結しました。時の首相は鈴木貫太郎海軍大将、内閣書記官長(現在の内閣官房長官)は、迫水久常(さこみず・ひさつね)でした。迫水は、戦後参議院議員となり、郵政大臣、経済企画庁長官などを歴任した人物です。
迫水は、岡田啓介元首相の女婿でした。迫水は、岡田の指示を受けながら、東条政権打倒に尽力しました。鈴木内閣では、書記官長として、終戦のための手続きや段取りのすべてを取りしまっていました。
迫水は、昭和天皇が終戦の決断をした昭和20年8月9日の御前会議のことを、次のように回想しています。
「その日の真夜中、宮中の防空壕の中、天皇陛下の御前で戦争を終結させるか否かに関する、最後の御前会議が開かれました。…そのとき、私は一番末席を占めさせていただいておりました。
会議の席上、戦争を終結させるか否かについて、いろいろな論議がございました。が、最後に鈴木総理大臣が立って、天皇陛下に『陛下の思召しをうかがわせて下さいませ』とお願い申し上げたのでございます。
天皇陛下は『それでは自分の意見を述べるが、みなの者は自分の意見に賛成してほしい』と仰せられました。時に昭和20年8月10日午前2時ごろのことでした。
陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして『自分の考えは、先ほどの東郷外務大臣の意見と同様に、この戦争を無条件に終結することに賛成である』と仰せられたのであります。
その瞬間、私は胸が締めつけられるようになって、両方の目から涙がほとばしり出て、机の上に置いた書類が雨のような跡を残したことを今でも覚えております。部屋は、たちまちのうちに号泣する声に満ちました。私も声をあげて泣いたのでございます。
しかし、私は会議の進行係でございましたので、もし天皇陛下のお言葉がそれで終わるならば、会議を次の段階に移さなければならないと考えまして、ひそかに涙に曇った目をもって天皇陛下の方を拝しますと、陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。そして白い手袋をおはめになった御手の親指を、眼鏡の裏にお入れになって、何回となく眼鏡の曇りをおぬぐいあそばされておられました。やがて白い手袋をおはめになった御手で、両頬をおぬぐいになりました。
陛下御自身お泣き遊ばされていることを拝しました参列者一同、身も世もあらぬ気持でその時ひれ伏し泣くほかなかったのでございます。
陛下は思いがけなくも『念のために理由を言っておく』とお言葉を続けられました。
『自分の務めは、先祖から受けついで来た日本という国を、子孫に伝えることである。もし本土で戦争が始まって、本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。そうすればこの日本の国を子孫に伝える方法はなくなってしまう。それゆえ、まことに耐えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、自分がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい』という主旨のことを、たどたどしく、途切れ途切れに、ほんとうに胸からしぼり出すようにして陛下は述べられたのであります。
かくして、大東亜戦争は終わりました。…すなわち大東亜戦争が終わったのは、天皇陛下が御自身の身命をお犠牲になさいまして、日本の国民を救い、日本国をお救いになられたのであります」(註)
終戦の御聖断は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。それは「民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。もしこの時、天皇が終戦を決断しなければ、戦争はさらに悲惨な展開を遂げ、わが国は回復不可能な結果に陥ったでしょう。
今日、私たち日本人があるのは、国民を思って終戦を決めた昭和天皇の御聖断によっていることを、忘れてはならないのです。
註
・迫水久常の講演記録(昭和44年1月7日、東京・日比谷公会堂、
日本精神復興促進会発行『明けゆく世界 第6集』より
次回に続く。
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