〜〜〜〜〜〜〜〜〜 細川一彦著作集(CD)のご案内 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
拙著『人類を導く日本精神』の付属CDに、「ほそかわ・かずひこの<オピ
ニオン・サイト」のデータを収納しました。その後、2年9か月ほどの間に、
新たな掲示や一部修正を多く行いました。
そこで、本年4月12日時点のデータを<確定版>としたCD−Rを作り
ました。今後このサイトが閉鎖・消滅した後も、資料としてご利用いただけ
ます。単行本にすると約30冊分になります。
1枚400円です。枚数に限りがあります。申し込み期間は1か月限定
(5月27日まで)です。
申し込みを希望する方には、詳細をお伝えします。下記にご連絡下さい。
fhoso@m8.dion.ne.jp
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■日本の心117〜英明無私の指導者:明治天皇1
ペリーの黒船が来航した年、明治天皇は1歳でした。当時、白人諸国は、競って東洋に植民地を求めて進出し、一歩誤れば、わが国はたちまち欧米列強に征服支配されるおそれがありました。しかし、260年にわたる徳川幕藩体制は、もはや対外的な対応力を失い、国中が開国か鎖国か、朝廷か幕府かで激動していました。こうした情勢の中で、尊皇攘夷の中心となっていた父・孝明天皇が崩御し、少年・明治天皇は僅か16歳で、皇位を継ぐことになったのです。慶応3年(1867)1月のことでした。
天皇は背が高く、色浅黒く、骨格たくましく、剛毅果断の性格で進取の気象に満ちていました。この若き天皇を中心として、時代は大きく転換してゆきました。慶応3年10月、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権は700年ぶりに朝廷に返されました。これを受けて、明治天皇は、同年12月、王政復古の大号令を発しました。そして、翌年の明治元年(1868)3月、天皇は、五箇条の御誓文をもって、施政の大方針を示しました。
その後のわが国の発展はめざましく、翌2年版籍奉還、4年廃藩置県、5年学制頒布、鉄道の開通、太陽暦の採用などが進められました。さらに、明治22年、明治天皇は大日本帝国憲法を発布、翌23年には帝国議会を開設し、また教育勅語を下賜しました。
こうしてわが国は、明治天皇の下、僅か半世紀の間に、アジアで初めての近代化に成功し、文明開化、富国強兵、殖産興業、教育の普及、文化の向上など、欧米に伍した近代国家として躍進していったのです。
明治天皇は6度にわたって地方御巡幸をしました。まだ交通手段が発達していない時代ですから、馬車や船による旅行は、身体的に大きな負担だったことでしょう。しかし、天皇は自分の目で国内各地の様子を見、また国民に接し、直接世情を知りたいという強い希望をもっていたのです。御巡幸の旅は、2ヶ月の長期に及ぶこともありました。今日も各地に明治天皇が訪問したという記念碑が建てられています。
その一方、天皇は避暑避寒などは殆どしなかったそうです。記録に残っているのは、わずかに東京・小金井に遠乗りして桜を賞でたとか、また多摩の丘陵の兎狩り、清流での鮎漁ぐらいと伝えられます。我が身をいとうことなく、常に国家国民のために尽くす指導者としての天皇の姿がうかがわれます。
明治時代の最大の危機は、日清・日露戦争でした。これらは、新興日本の国運を賭けた戦いでした。明治天皇は、その間、常に国民の先頭に立ち、国利民福のためひたすら尽力しました。そして出征兵士と苦労を共にするという考えから、炎暑の最中でも冬の軍服を着用しておられたという逸話があります。とりわけ日露戦争の際は、天皇は非常な心労を続け、それがもとで健康を害し、明治45年7月30日、61歳で崩御したのです。その御代は、ひたすらに「公」のために尽くし、「私」を省みない天皇の生涯でした。
幕末から明治の時代は、欧米列強から独立を守るため、わが国が急速に変革を成し遂げねばならなかった時代でした。この変革に成功したのは、明治天皇を中心に、国民が君民一体となって懸命の努力をした結果でした。危機と転換の時代に、わが国が類まれな英明無私の君主をもったことは、大きな幸いだったのです。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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