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2022年05月15日17:08

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精神の物語(107) キリスト教と日本人の宗教意識

 1枚目 東大寺仁王門 運慶と快慶作 
 神(仏)域に入る魔物を防いでいるのだが、これで親しみを感じろというのは無理だろう。実際、教会の入口にこんなものは無い。
 2枚目 おっぱい観音(小牧山 間々観音)  重光機長ブログより 
 3枚目 フェリーニ「甘い生活」ラストシーン  ソナー・メンバーズ・クラブより
若い頃のヴェルレーヌのような放埓な生活に対して、穏やかな日常から、戻って来いと呼びかけている。     以上、写真はネットから

 日本人の宗教心をどう理解するかに関する件は、ここらで終わることにしたい。山本七平が日本人とは日本教徒である。自身も日本教キリスト派であって、欧米のキリスト教信者とはだいぶ違うとのことだった。
 私海風は最近、新書版のいろいろな宗教や仏教諸宗派の解説を読んでみたが、むしろ混乱することが多いのである。というのは、宗派の、たとえば空海の解説者は、わが仏尊しとなってしまって、仏教全体のことを言わないし、まして信者の本心などに関心があるとも思えないわけで。
 ということで、これ以上はむしろ民俗学のアプローチが有効に違いないし、ということなら私自身も大衆の一員として、自身の経験や本音を探って結論を得るべきだと考えた次第である。

 1.折口信夫 芸能は神への祈りとして始まった。
 だとすれば、今でも神への祈りという原初の役割は残されているはずではないか。進化論で言えば、原始の生命体と今を生きるものとⅮNAの構造は同じだとのこと。

 紀貫之の古今集「仮名序」には、
 「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。」
 つまり、和歌は祈りなのである。

 そして、今の短歌と俳句も同様だろう。
 子規「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」
 単なる日常の写実ではない。日常の中に不意に永遠が侵入してくる瞬間をとらえたもの。
 ヴェルレーヌ 偶成「・・・打仰ぐ空高く御寺の鐘は  やはらかに鳴る。
・・・あゝ神よ。質朴なる人生は  かしこなりけり。・・・」は若い頃の無軌道な生活を悔やんだものだが、永遠なるものが動因になっている。子規の場合はその後の思いを描いていないが、俳句ではそこから先は読者それぞれに任せている。

 良寛「山かげの岩間を伝ふ苔水の幽かに我はすみ渡るかも」
 この境地が禅修行の目的だと思う。

 宿屋飯盛「歌よみは下手こそよけれ天地のうごき出してはたまる物かは」
 貫之をからかっているのだが、江戸時代でも古今集の美学が規範になっていたことを示している。それで子規による批判を受けることになった。

 水原秋櫻子「啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木々」
 鷹羽狩行「摩天楼より新緑がパセリほど」
 秋櫻子は高原の秋を、狩行はマンハッタンの春を見せる。四季は遍在している。

 で、日本は短詩形の国なので、誰でも四季を讃えることはできる。私の「赤を赤黄を黄に雨のチューリップ」春雨のチューリップを讃えた。

 2.先に、日本人の宗教観を「苦しい時の神頼み」だと結論付けたが、別の観点からもう一度検討しておきたい。
 キリスト教はもはや一神教とは言えないが、この世界の創造神であって、さらに最後の審判によってこの世を滅ぼし選ばれた人々だけの永遠の浄土世界に作り直すとする。以前に、ノアの洪水でやったのだが。
 最後の審判に選ばれた人は永遠の命を、選ばれなかった人には永遠の死、あるいは永遠の地獄が待っている、・・・ことになっている。
 ところで、ユダヤ教は「選民思想」だとされている。つまりエホバに選ばれた人だけがユダヤ教徒になれて、天国が約束されている。むろん、教義に違反したら無効になるが。キリスト教の場合は、布教もあるし、誰でもなれるが、最後の審判で選別されることになる。
 例えて言えば、入りやすいが卒業が難しい米国流の大学と、入学は難しいが卒業はやさしいとされる日本の大学システムの違いだろう。
 だから卒業(死ぬまで)まで勉強(信仰)を怠ってはならない。

 しかし、おそろしいキリストに対して、日々の平穏を与えるのがマリアである。
 ヨーロッパでは、マリア賛歌(アヴェ・マリア)としてシューベルトやグノーが有名であるが、ウィキによれば、近年では日本人作曲家も含めてたくさんあるとのこと。

 しかし残念ながら、日本にはマリアに匹敵する強力な女性の神は存在しない。辛うじて、本来男性であるが、なんにでも変身できるとする観音菩薩の女性形の悲母(慈母)観音がいる。たとえば、おっぱい観音とあだ名される観音像がある。

 ただし、先に述べたように、この世を讃えるという形で、日々の祈りによって慰安を得る方法はある。日本では誰でも作れて、時に傑作もできる(だから桑原武夫が第二芸術だとした)短詩形がある。むろん、欧米でもあるはずである。

 3.欧米における非宗教的信仰
 1)日常からの呼びかけを聞く
 フェリ-二「甘い生活」dolce vita
 Dolceには「柔和に」とか「甘美」という意味があるとのことで、映画の題名の翻訳には「甘い」を使っているが、ラストシーンでは怪魚を見るために集まってきた主人公たちに、この女性が「柔和な」人生を呼び掛けているのである。

 2)自分のまわりの自然を讃える
 モンゴメリ「赤毛のアン」は、養父マシュウの急死の後で、墓参りに行ったアンが口ずさむ、「神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」で終わる。
 これは、上田敏の訳詩集「海潮音」1905 で早くから有名だったローバート・ブラウニング「時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」の一部であるが、この詩自体は、劇詩「ピッパが通る」の一部である。
 アンと同様の孤児で、女工のピッパが、年に一度の休日に町をめぐって神に感謝する歌を歌うという設定であるが、このモチーフを受けて「赤毛のアン」はプリンス・エドワード島と半農半漁村キャベンデッシュ(小説では中世風のアヴォンリー)の自然を讃えることから始まっている。
 ブラウニングもモンゴメリもキリスト教文学のつもりだったかもしれないが、いずれにしろ三浦綾子「氷点」のように原罪を追及した正統派キリスト教文学ではない。
しかし神への賛美や感謝が信仰の証になるのは、自然を含めこの世界を作ったのが神だからである。
 一方、紀貫之が選者となって、日本の美学を確立したとされる「古今集」は、雅歌(君が代など)、恋、春夏秋冬の四季などに分類して編集されていた。恋や四季の美しさをたたえるということでは、ブラウニングや赤毛のアンと同じなのである。日本で根強い「赤毛のアン」の人気は、日本人の自然への感性に合っているからに違いない。

 ★海風:まとめ 
 ということで、欧米キリスト教と山本七平の命名した日本教には相似形の関係がみられる。
 むろん、以前に言ったが、「死ねば両親のいるところへ行く。宗教はいらない」という人もいる。このタイプは、アンケートに無宗教と答えるはずだが、立派な宗教、多分浄土教徒である。
 昔だが、「死に近き母の苦しさ極まるか この罰当たりとおのれ罵る」という歌を新聞の短歌欄で見たが、作者の娘さんは浄土真宗を知らないだけである。仏教は因果応報原則なので、現に苦しい境遇にあるのは、意識せずに何か罰当たりなことをした悪人なのである。親鸞は、そのような悪人こそ優先して救われるとしたのであった(悪人正機)。


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