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2022年03月31日20:51

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ファンタジーの中へ(151) 朝井まかて「残り者」双葉社2016

 1枚目 表紙絵  折々の記ブログより
 2枚目 「猫奥」表紙絵  上臈御年寄姉小路の飼い猫(吉野ちゃん)、後ろが大奥の実権を握る筆頭御年寄りの滝山。彼女は慶喜が将軍になった時に引退したので、最後の日には立ち会っていない。
 3枚目 江戸城本丸大奥  歴史面白楽学ブログより
 西の丸仮御殿の大奥図に見やすいものがないため、本丸大奥図で代用した。基本構造は同じである。

 この小説は大奥最後の日、4月10日から翌11日早朝の間に起きたことを、奥女中の残り者の回想を含めて何があったかを描いたものである。
 「残り者」とは変わった題名だが、表紙絵の5人の女性を指す。西郷と勝海舟との会談が成功して、京都側が江戸城無血開城を条件に徳川家の存続を認め江戸城退去の期日を二日後と指定された。
 1868年4月9日、先ず静寛院和宮と奥女中たち150名ほどが田安邸に退去し、その翌日10日の今日、天璋院篤姫と奥女中170名ほどが退去するのである。天璋院は大広間に、お目見えも、お目見えできない以下者も全員集めて、約定が成ったので官軍が襲ってくることはない。皆安心して一橋邸へ移るように申し渡した。「ゆるゆると急げ」と。そして駕籠に乗ると高位の奥女中(御年寄りたち、御中臈たち、御小姓に御表使など)にとりまかれて大奥から去って行った。
 その日、天璋院が召した上掛は、呉服の間(7名ほど)に奉公するりつが縫ったものだった。りつは貧乏旗本の娘で父が病気のために母の内職で暮らしていた。ところが母の姉高島は才気があって、薩摩邸上屋敷の奥女中を勤め上げた。11年前(1857年)に薩摩から篤姫が嫁いできたときに、奥女中が足りぬと薩摩藩邸が伯母に推薦を頼んできたのだった。

 1863年(文久3)に本丸と西の丸が焼けて、財政難から西の丸仮御殿だけが4年前に再建された。ここに、13代将軍家定公御台所の天璋院、家定公御生母天寿院、14代将軍家茂公御台所の静寛院和宮、家茂公御生母実定院が数十人から百数十人の奥女中を抱え、さらに奥女中たちはそれぞれの下女を使っているので、減ったとはいえ千人以上になる。
2年前に15代将軍となった慶喜公は江戸城には入らず、御台所のも大奥入りを辞退した。筋を立てる天璋院がこれを認めたのは、慶喜公が嫌いだったからに違いなかった。

 奥女中の住まいである長局から部屋方200名がどっと出てきて、自分の主人を探し始めた。
 りつは片づけたはずの針が落ちていないか気になりだして呉服の間にもう一度戻ることにした。
 本当にもう誰もいない。にぎやかで華やかで、己の仕事に厳しかった女たちが消えた。いったいなぜ奉公の場を追われねばならないのか。その時音がした。りつは官軍なら自決の覚悟で衣桁の後ろに身を隠した。
 ・・・と、50歳ぐらいの女が、「さとひめさん。お願いです。出ていらしてください」と言いながら部屋に入ってきた。身なりからして「以下の者」である。
 りつが姿を現すと、その女お蛸(大奥の女中はりつも含めて皆源氏名だが、膳所の下女には魚の名が源氏名になっている)という御膳所の御仲居は腰を抜かすほど驚いた。

 サト姫とは天璋院の飼い猫の名で、大奥で知らぬ者は無い。3人ほどの御中臈が世話係のはずなのに、お目見えできない以下者が関われることではないのである。
 ところがお蛸は旦那様(自分の仕えている女主人。りつやお蛸には天璋院を指す)が心配なされているとまるで側近であるかのごとき口ぶりなのである。
 ところが実際にそうだった。家定は篤姫のために芋を吹かしたり、阿蘭陀風のカステイラを焼きたいと言って夜中にお蛸の所にやって来るのだった。お蛸も名前だけしか知らなかったのだが、絶対秘密ということで、将軍と二人で、何度も焼いては失敗を繰り返して、ついにしっとりと柔らかく焼き上げたのだった。
 家定は体が弱く、首を大きく後ろに振る癖があって、暗愚な芋公方と陰口をたたかれていたが、篤姫が嫁いで1年半で脚気で亡くなった。家定35歳で、篤姫24歳だった。
 ★海風注:それで思い出した。英国初代公使(まだ大使はいなかった)オールコック「太君の都」である。かれは江戸城で家定に謁見したと書いているが、このとおり首を振るばかりの馬鹿殿扱いだった。褒めていたのは質実剛健そのものの江戸城。パリやロンドンの宮殿とくらべ、金銀細工はおろか飾りの一つもないと。そして出された食事の貧しいこと。

 6年前、1862年(文久2年)皇女和宮が14代将軍家茂公に降嫁された。和宮は万事に朝廷が優先されると主張して、京から取り寄せた牛車で江戸城正門に乗り付けた。そして先代の御台所の天璋院(つまり姑なのだが)を臣下扱いしたのである。これで天璋院とその奥女中たちとは犬猿の仲になった。

 御三の間(雑用係)のちかが現れた。
 豪華な衣装を着ていたが髪の結い方で、りつには目下だと分かった。
ちかは籠城して明日やって来る女将軍(天璋院のこと)を出迎えると言い張るのである。
確かに、朝敵となった徳川家一門にも号令をかけ、官軍には恭順の構えを取るように達して、かって犬猿の仲だった静閑院和宮をも動かして江戸城総攻撃を阻止したのが天璋院だった。

 とにかく手柄を上げたい。明日江戸城に帰って来る天璋院将軍に献上するのだと主張するちかは、庭の木に登ったサト姫を追って木に登り始めた。子供の頃から木登りしていたと言って。
 で、サト姫を捕まえたが、抱いているだけではまた逃げられる。猫を運ぶための籠を借りようと天璋院の部屋に入ったところで咎める声が聞こえた。
 「その方、いづこの者だ」
 その冷静沈着な統率力と少年のような美貌とべらんめー口調の噂を大奥で知らぬ者のない御中臈ふきだった。
 傍にもう一人いた。京言葉を話す もみぢは静寛院和宮の呉服の間だった。もみぢはサト姫を探して居残っていた りつたちを朝敵などとののしるのである。

 それにしても、りつには天璋院についていなければならない御中臈と和宮の呉服の間がなぜここにいるのか不審だった。
 りつは辞を低くして名手との評判を聞いているもみぢに京の縫い方を見せて欲しいと頼んだが、もみぢはそれなら京と江戸との競争をするという。縫い終えて、りつはとても歯が立たないと負けを認めることになった。

 結局、サト姫だけは天璋院のもとへ送り届けたが、後の4人は御中臈ふきの長局で夜を明かす羽目になった。翌早朝、天璋院の部屋からの秘密の抜け穴を通って外に出ようとしたところで一人の薩摩兵に見つかったのだが、ふきが短刀を首に突きつけ、口を押さえて取り押さたところを、ちかの当て身で気絶させた。抜け穴の外では、村田医師が待っていた。
 もみぢは静寛院のいる田安邸には行かないと駄々をこねたが、りつが必ず迎えに行くと宥めたのである。

 江戸城明け渡しから15年後(1883年明治16)、天璋院は49歳で世を去った。その翌年、大阪から上京した村田蕗子(村田医師と結婚して外科医になっていた)を囲んで残り者5人の同窓会が開かれ、あれからの暮らしぶりを話し合ったのである。
 お蛸は天璋院が亡くなるまで台所を預かっていたが、他の者はそれぞれの道を歩んでいたのである。

 ついでに山村東「猫奥」のこと
 奥女中たちの多くは猫を飼っていた。滝山は権勢を誇った実在の御年寄だが、ウィキによると鉄砲組の娘で、勝海舟の母とは従姉妹の関係だったとのこと。
 その滝山を主役にして、貧しくて猫など飼えない家に育って、どう扱ってよいのか分からない様子を見られて猫嫌いのうわさが立ってしまった。本当はかわいがりたいのだが、皆が信じる噂を嘘だとは言えなくなった滝山のとりわけかわいいと信じた「吉野ちゃん」をめぐるコメディーである。
 猫の好きなかみさんの姉が、同じく猫好きのかみさんに送ってよこしたマンガを私も読んで、これが大奥かと思っていたのだが、たまたま図書館で借りた「残り者」が大奥最後の日の緊迫感にあふれた物語だったのだが、対照的に「猫奥」は10年ほど前の、まだ平和な大奥だった。

 ということでNHKドラマ「小吉の女房」のこと
 これもまだ平和な幕末で、貧乏旗本勝小吉の長屋に松代藩士の佐久間象山が訪ねてくる。蘭学の先生を紹介して欲しい? とのこと。小吉は侠客のような印象を持っていたので、学者の佐久間象山が来るわけないと思ってみていた。それにしても、海舟の妹が象山と結婚したわけで。
 「夢酔独言」は不良の生涯の告白だとのことだが、かなり大げさなのではなかろうか。ともかく、ドラマでは、そんな不良の印象はなかった。
 まあ、勝海舟が新門の辰五郎や清水次郎長と気心が知れた仲だったというのは小吉との縁だったのだと思うのだが?

 ★海風:まとめ
 本書は小説であって、ここにあるような事実はなかったと思う。で、現実の「残り者」は天璋院であり、静寛院であった。薩摩藩や朝廷から帰ってくるように指示されても、断固として江戸城に残ったのがこの二人だった。
 直接的には、二人のために献身してきた御中臈からお蛸のような以下の者や部屋方の下女たちの命の保証のためであろう。江戸が内戦状態になればどういう目に会うか分からない。それを防ぐために、自ら江戸城に立てこもったに違いない。結局、江戸へと攻めてくるのは、朝廷であり、その主力の薩摩藩なのである。仲の悪かったという二人とも、それを防ぐ責任を感じたし、お力で何とかしてくださいという暗黙の期待の目が胸に刺さったであろう。
 むろん、小説の5人と同様に今更帰る家はない。帰りたくないという気持ちは、天璋院も静寛院も同じだったと思う。帰っても針の筵が待っているだけだ。

 本書で指摘しているが、大奥と言うと将軍のハーレムという印象があったが、ハーレムの部分は御中臈の中の一部分にすぎず、他は将軍と大名家との私的な交際のための事務方のようなものだった。だからこそ、滝山のような御年寄が大きな権力を持ち、幕政を動かすこともできた。
 それに二人の将軍が連続して早世したために、彼らの大奥がそのまま残ってしまった。大奥とはいわば女の仕事場であり、希望すれば終身雇用のキャリア・ウーマンの場でもある。むろん、花嫁修業の場の一面もあった。昔は、大商人などの家に仕えて、花嫁修業をする習慣もあった。作法を習うと同時に箔も付くし、嫁同士の人脈ができるわけで、嫁に取った家でも役に立つのである。レビ=ストロースの提唱した結婚の法則の日本中世版であろう。
 本書でも5人の残り者は同窓会のような付き合いがある。

 最後に、江戸城総攻撃を止めたのは、どういう力が作用したからなのか? かっては、それに私も勝海舟と西郷隆盛の会談の結果だと思っていた。天璋院や静寛院の嘆願書が発見されたのは、いつのことか知らないのだが、そんなに昔ではなかったらしい。大河ドラマ「天璋院篤姫」2008年平成20年とのことなので、その中で天璋院の嘆願書が使われたとのこと。少なくとも、知られるようになったのは平成になってからかで、一般に知られるようになったのは、この大河ドラマ以降だろう。
 で、ネットで見た限り、実際を動かしたのは何なのか決定版は無いようであるが、それでも西郷の力を重視しているようだ。
 天璋院の嘆願書も二通目は西郷宛だったとのこと。しかし私情を挟む余地はないとして軍を進めたので、最終的には西郷と勝との会談で決定されたとのこと。そうなら、元の定説と実質的に同じことになる。

 私海風としては、西郷は神格化されていると思う。圭室諦成(たまむろたいじょう)「西郷隆盛」岩波新書1960 は、西郷が良い仕事をしたのは、島津斉彬や勝海舟に従っていた時だけで、維新以後独自に動き出した時は失敗ばかり(その集大成が西南戦争)だったとする西郷無能論で大評判だった。今頃ネットで探してもなかなか見つからないし、そもそも圭室諦成の名前は難しくて思い出せない。

 西郷は「敬天愛人」などと儒教道徳の体現者のように讃えられているが、現実には薩摩の身分の低い武士を育てて強力な軍隊を作った軍人であり、戦いでは謀略家であった。明治維新後には常に民を思い薩長の出世した同僚たちを批判していたと? だいたい反対派とは道徳で攻めるのが今も昔も常なので、西郷も同様だったということだろう。
 江戸を焼き討ちして幕府を挑発するとか、これは岩倉具視かもしれないが倒幕の密勅とかを根拠とした倒幕とか、朝鮮征伐に西南戦争。とても、西洋の文化技術によって近代化を推進した斉彬の弟子とは思えない。

 ということで、天璋院と静寛院の死を覚悟した嘆願を西郷も飲まざるを得なかったに違いない。結局、無理押ししていたのは西郷だし、当時としては西郷に心服している最強力な薩摩軍を率いていた。だから、勝との会談で和平を承諾して朝廷を説得するというのは嘘なのである。ウィキによれば、板垣退助もなぜか知らないが倒幕強硬派だったとのことだが。

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