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2022年03月27日08:43

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日本の心86〜大西郷の生き方:公と私、天の道

 明治維新の英傑・西郷隆盛には、これといった著書がありません。わずかに西郷の言葉を伝えているのが、『西郷南洲遺訓』です。『遺訓』は西郷が生前語った言葉や教訓を集めたものです。編集は、薩摩ではなく庄内藩(今の山形県鶴岡市付近)の藩士たちによってなされました。
 内村鑑三は、世界に向けて書いた英文の名著『代表的日本人』で、第一に西郷隆盛を挙げています。
 「維新における西郷の役割をあまさず書くことは、維新史の全体を書くことになるであろう。ある意味に於いて、明治元年の日本の維新は西郷の維新であった。…余輩は、維新は西郷なくして可能であったかどうかを疑うものである」
 このように西郷を称える内村は、西南戦争における西郷の死を悼み、「武士の最大なるもの、また最後のものが世を去ったのである」と書きました。

●西郷における「公と私」

 維新前夜の戊辰戦争の時、庄内藩は最後まで抗戦し、遂に城を明け渡すことになりました。厳罰を覚悟したところ、官軍から何ら恥辱を受けず、きわめて寛大な処置でした。後日それが西郷の指示によるものであったことを知り、庄内藩士たちは西郷の度量の大きさに感服したのです。庄内藩は親書をもった使者を鹿児島に派遣し、藩主酒井忠篤以下76名が西郷を訪ね面談しました。その後も庄内藩士は西郷に教えを受けました。やがて彼らは西郷から聞いた言葉をまとめ、『西郷南洲遺訓』を作成したのです。これが西郷の偉大さを今日に伝える珠玉の文集となっています。
 西郷は、無私の人だといわれます。『遺訓』には、その西郷の公と私についての考え方が表れています。
 「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ」
 小人とは徳のない人間です。君子は徳の高い人間、大人物です。西郷は自分の利益を図ることは私であり、人民の利益を図ることは公だといいます。民利公益を追求する者は栄えるが、私利私欲を追求する者は亡びると、彼は言っています。
 「廟堂(びょうどう)に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些(ちつ)とも私を挾みては済まぬもの也」
 廟堂とは政府のことです。国の政治を行うことは、天地自然の道を行なうことであるから、たとえわずかであっても私心を差しはさんではならない、と西郷は言います。
 「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。今となりては戊辰の義戦も、偏(ひとえ)に、私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻(しき)りに涙を催されける」
 西郷は明治政府の指導者が、公を忘れ私に走る姿を見て、悲嘆していました。維新創業の時というのに、ぜいたくな家に住んで、衣服を飾り、きれいな妾をかこって、私財を蓄えることばかり考えるならば、維新の本当の目的は遂げられないだろう。今となっては戊辰戦争もひとえに私利私欲を肥やすためとなり、国に対しても、戦死者に対しても申し訳ないことだと言って、西郷はしきりに涙を流したのでした。
 西郷は「児孫のために美田を買わず」という七言絶句の漢詩を示し、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと行いとが反していると見限りたまえと言ったそうです。実際、西郷はその言葉どおりに実行しました。こうした西郷の姿勢は、まさに奉私滅公の精神の表れでしょう。その精神は、次の一句に最もよく示されていると思われます。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
 命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。この言葉は、山岡鉄舟のことを語ったともいわれますが、西郷自身がこのように私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる人間だったと言えます。
 今日、わが国では、西郷のように「公」の精神をもつ若者の活躍が、期待されているのです。誠をもって公に報じる人にとって、『西郷南洲遺訓』は座右の書となるでしょう。

●西郷における「天と道」

 西郷を敬愛した内村鑑三は、西郷の内面に深く思いを致します。『代表的日本人』に内村は書いています。尊敬する徳川斉彬と藤田東湖を失ったとき、西郷は孤独の中に住み、自己の心を見据えました。そして、「西郷はその心のなかに自己と全宇宙より更に偉大なる『者』を見出し、その者と秘密の会話を交わしつつあった、と余は信ずる」と。そして内村は、「天との会話」の中から、西郷の次のような言葉が生まれたといいます。
 「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
 すなわち、人を相手にせず、常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
 「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり」
 すなわち、道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人は道にのっとって行動すべきものであるから、まず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も同じように愛するものだから、自分を愛する心をもって人を愛することである。
 ここに見られるのは、有名な「敬天愛人」の思想です。内村は、明治維新における「出発合図者」(スターター)「方向指示者」(ディレクター)としての西郷の常人に絶した活動力は、この信念から発していると書いています。
 「敬天愛人」とは、西郷が創った言葉ではありません。シナの古典にある言葉です。「道」という概念も同様です。しかし、西郷の「天」や「道」は、シナ思想の受け売りではありません。作家の林房雄氏は次のように指摘します。「西郷のいう道とは何か…道とは『天を相手にせよ』の『天』と同じであるが、これを『天地自然の道』と定義するところに、私は国学の影響を見る」と。
 幕府の官学は、朱子学でした。西郷も四書五経や朱子を学びました。しかし、薩摩藩では、国学も盛んでした。島津久光は、国学の大家ともいえる一面をもっていました。西郷は、やがて先輩・友人・同志の影響によって、本居宣長や平田篤胤を学ぶようになりました。なかでも先輩の竹内伴右衛門は篤胤生前の門人でした。竹内は「皇道唯一(すめらぎの道ただ一つ) こをおきて仇の小径に よためやも人」という篤胤直筆の和歌を、座右にかかげていました。

 このようなことから、西郷の「敬天愛人」には、わが国固有の思想が含まれていると考えられるのです。その傍証として、林氏は次の点を挙げています。西郷は36歳から38歳まで、第2回の島流しの身となりました。沖永良部島の獄中で、死を覚悟した西郷は、「獄中有感」と題する詩を詠みました。その一節に、「生死何ぞ疑わん、天の付与なるを。願わくは魂魄をとどめて、皇城を護らん」とあります。「皇城」とは、宮中のことです。自分が死んでも魂となって、天皇を護りたいという願いを歌っています。こうした勤皇の精神は、外国思想(儒学)のみで養われるものではありません。
 このように見てくると、西郷の「敬天愛人」は、天地自然の道に従う思想というだけではないことがわかります。西郷の「敬天愛人」には、わが国に伝わる神の道に従うという意味があり、また天皇への忠義の念が込められていたのです。西郷に限らず、維新の志士たちは、わが国の伝統・国柄を学び、そこから新しい変革のエネルギーを得ていたことを忘れてはならないでしょう。

参考資料
・『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)
・内村鑑三著『代表的日本人』(岩波文庫)
・林房雄著『大西郷遺訓』(新人物往来社)

 次回に続く。

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