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2022年03月15日09:05

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日本の心80〜死中に活を開く:吉田松陰1

 今日、教育の改革が叫ばれています。教科書の改革も必要です。教育基本法の改正も必要です。しかし、それ以上に必要なものは、教師の変革でしょう。教育者が変わらなくては、本当の教育改革は成しえません。こう考えるとき、教育にたずさわるすべての人が学ぶべき人物として、吉田松陰がいます。
 松陰は、国防のためには海外を視察する必要があると考え、密航を試みました。しかし、失敗して自首し、囚われの身となりました。安政元年(1854)10月、萩の野山獄に移されました。
 獄中には、既に11人の囚人がいました。彼らには出獄の可能性がなく、ただ死を待つのみでした。心は荒み、自暴自棄となっていました。国禁を犯した松陰も、死罪は免れ難い身でした。しかし、この絶望的な状況でも、松陰は希望を捨てませんでした。松陰は、獄中を学びの場としようと考えたのです。そこには、死中に活路を開く武士道の精神が、表れています。
 松陰は、まず富永有隣に働きかけました。有隣は優秀な能力を持ちながら、性格粗暴のため投獄されていました。この扱いにくい人物に対し、松陰は「一緒に勉強しよう」と粘り強く呼びかけました。その熱意に動かされた有隣は、松陰と心を通わすようになりました。こうして松陰は、次々に囚人たちに働きかけ、入獄の半年後には、座談会を開けるまでにこぎつけました。
 そして、松陰は皆の求めに応じて、『孟子』の講義を始めました。開巻第一頁を講ずるに先だって、皆にむかってきっぱりと言いました。
 「諸君と一緒に学を講ずる私の意見をまず申しあげたい。私たちは囚人として再び、世の中にでて、太陽を拝することはないかもしれない。たとえ、学んで、その学が大いに進んだとしても、世間的には何のききめもないといえるかもしれない。しかし、人間として、必ずもっているものは、人として、人の道を知らず、士として士の道を知らないということを恥かしく思う心である。この気持が誰にもあるとすれば学ぶ外ない。そして、それを知ることが、どんなに我が心に喜びを生ずるものか……」(『講孟余話』)と。
 松陰は『孟子』の講釈を通して、自らの志を語り、天下国家を論じ、いま何をなすべきかを訴えました。その情熱と至誠は、囚人たちの魂を揺り動かしました。いつしか司獄(刑務所長)までが獄室の外から、講義に耳を傾けていました。講義は、2ヶ月後には『孟子』の輪読会に発展します。囚人たちは見違えるように真剣に学ぶようになり、輪読は力のこもったものとなっていきました。やがて松陰が「諸君の中に必ず後世、僕の意志を継ぐ者が出てくるでしょう」と信頼するまでに、彼らは変わっていきました。
 松陰は、ただ自分が教えるだけではありませんでした。囚人のなかに俳句が上手な人があれば、その人を師匠にして俳句の会を主催し、書道や植木のうまい人がいればそれを習う会をつくるなど、各自の得意を生かして先生になってもらいました。こうして絶望の監獄は、希望の学校に変わりました。囚人たちは、生きがいを取り戻し、罪を悔い改め、度し難い性格もが改まっていったのです。松陰自身も、彼らを通じて文芸等を学ぶことができ、蒙を啓かれました。そして、囚人たちとの学びを通じて、松陰はどんな人間にも至誠をもって当たれば、必ず通じることを、一層強く確信しました。
 安政2年の暮、松陰は野山獄から出られることになり、自宅蟄居(ちっきょ)を命じられました。翌年、いよいよ松下村塾が始まります。この時、松陰27歳。処刑されるまでの二年あまり、彼は不屈の情熱をもって、青年たちの魂に訴え、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋等の志士を育てました。こうした松陰の偉業は、死中に活を開く野山獄の学びに、発するものだったのです。

参考資料
・池田諭著『吉田松陰 維新を切り開く思想とその後継者たち』(大和書房)

 次回に続く。

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