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2022年02月21日09:05

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日本の心70〜江戸時代を貫いた皇室への崇敬心

 江戸時代は、徳川幕府が政権を担い、朝廷の存在が軽んじられていた時代だと考えられがちです。確かに江戸時代の皇室は、中級程度の大名の実力しかありませんでした。経済的には12万5千石程度にすぎません。けれどもそれは百万石の大名よりも、八百石の幕府よりも、強大な精神的権威を持っていました。
 幕府は当初、朝廷に制約を課す政策を採りましたが、その後、朝廷の権威を重んじる方針に転換しました。それにより4代将軍家綱から5代将軍綱吉の時期にかけて、重要な朝廷儀式が幕府の経済的援助を受けて復興されました。
 その第一は、応神天皇・神功皇后等を祀る石清水八幡宮において、勅使が参向する放生会(ほうじょうえ==万物の生命をいつくしみ、殺生を戒める神事)が復興されました。第二は、元禄7年(1694)に、応仁の乱以降途絶えていた、賀茂神社に勅使が参向する祭りが復興されました。これが京都の葵祭です。第三は、貞享4年(1687)、東山天皇の即位時に、大嘗祭(だいじょうさい)が再興されました。大嘗祭は、天皇が即位の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)です。これは、皇室行事の中で最も重要な儀式であり、朝廷の強い要望に応えて復興されました。
 この他、幕府は皇室の財政基盤を強化するため、禁裏御料1万石を加増し、荒廃した山陵を修理するなどしました。また、6代将軍家宣の時代には、宝永7年(1710)に新宮家・閑院宮家が設立されました。これは、皇子が出家する慣習を止め、新たに宮家を立てるべきとする新井白石の進言によるものでした。
 江戸時代には、日本の歴史や政治について教養のある者であれば、日本国の真の君主が天皇であることを認めない者はありませんでした。幕府の官学でもその点は、明白に認めていました。学者だけでなく、歌舞伎の作者、俳諧師、軍談講釈師でも、日本国は神の国であり、天皇が君たるべき国だと信じて、疑いませんでした。それは全国的に広く認められ、信じられていた通念でした。だからこそ幕府は、国民全体に浸透している天皇への崇敬心に基づき、天皇の精神的権威に依拠して自らの地位を強めようとしたのです。将軍は、天皇により信任され、その役職に任命された者であることを誇示して、権勢を振るいました。
 将軍だけではなく、大名・旗本等も朝廷から官位を受けました。それは律令制度による位や役職です。大岡裁きで有名な大岡忠相(ただすけ)の越前守というのもこれです。日光には徳川家康を祀る東照宮がありますが、これは家康の死後、朝廷から「東照大権現」という神号を与えられ、将軍家の祖神となったものです。このほか武家政権の正統性に関わる重要な部分には、すべて朝廷が関与していました。
 徳川幕府が採用した朱子学の政治理論によると、幕府の政権は、朝廷から委任されているということでなければ、徳川家が奪い取ったものとなり、他に力がある者が立って幕府を倒しても良いことになってしまいます。17世紀末から18世紀前半にかけて、新井白石や荻生徂徠らが、幕府・将軍の権力を正当化することに腐心しました。朝廷の権威を認めつつも、幕府の優位を確立しようという試みです。
 これに対し、朱子学の論理を徹底した山鹿素行や浅見絅斎(けいさい)は、天皇が真の統治権者であり、将軍は天皇から政権を委任されているという考えを明らかにしました。とりわけ絅斎の書『靖献遺言』(1687年)は、幕末まで広く読まれ、討幕運動の糧となりました。また、国学者の本居宣長は、 古道の研究により、『玉くしげ』に次のような趣旨のことを書いています。天下の政(まつりごと)は、天皇の「御任(みまさし)」により、徳川家康とその子孫である代々の将軍が行う。将軍はその「御政」を大名に預けている。天皇が国土と国民を将軍に預けたのであるから、国土と国民は将軍や大名の私有物でないと。これが大政委任論です。
 18世紀に入ると、飢饉や財政難で、幕府の統制にも緩みが出てきました。世紀半ばには、幕府が京都の公家たちの間に尊王論を講じた竹内式部を京都から追放する宝暦事件や、江戸で塾を開いて尊王斥覇を説いた山県大弐を死罪に処した明和事件が起こりました。それだけ朝廷の存在に神経質になる状況が生まれていたということでしょう。
 その後、天明7年(1787)から寛政の改革を主導した松平定信は、11代将軍家斉のために書いた『御心得之箇条』の中で、大政委任論を表明しました。それが、以後の朝幕関係の基本になります。しかし、これは同時に、朝廷の重要性を正式に認めることにもなりました。
 なかでも、幕府側から朝廷の権威を積極的に尊重する説を唱えたのが、水戸学です。水戸学は、徳川光圀による『大日本史』の編纂の中で生まれ、山崎闇斎や浅見絅斎の門弟らが大義名分論を展開していました。しかし、19世紀に入ると、外圧の危機に直面する過程で、尊王攘夷論を高唱するようになりました。なかでも会沢正志斎が書いた『新論』(文政8年 1825)は写本の形で広く流布しました。本書は、日本の「国体」は記紀神話の天孫降臨の神勅によって、万世一系の天皇が統治する国柄であることを明確に説き、世界情勢の分析に基づいて外国による侵略に備える国防の重要性を訴え、その後の尊王攘夷運動に深い影響を与えます。
 こうした尊王論は、一部の学者や勤王運動家のみのものではありませんでした。18世紀末(1770-1780)に、日本に住み日本事情を著述した、長崎のオランダ商館長ティッチングは、著書に日本の統治者君主が天皇であり、将軍は天皇に隷属する一役人にすぎないことを明記しています。それは当時の日本人の社会通念を反映したものでした。
 アメリカの外交官ハリスの『日本滞在記』によると、彼が日本に通商条約を迫った当時、幕府の外交政策を支持しているのは、18の雄藩のうち4藩のみでした。中小の藩でも、わずか3割のみといいます。また、こう説明した井上信濃守は、勅許がありさえすれば、不服を固執し得る藩は、ただの一藩もない、強大な反対派も直ちに沈黙する、とハリスに切言したと書かれています。
 江戸時代を通じて、皇室への崇敬が社会通念となっていたことを前提としなければ、黒船来航以後、明治維新へいたる尊皇倒幕への動きは理解できないでしょう。

 次回に続く。

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