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2022年02月19日12:40

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日本の心69〜子供の手本だった二宮金次郎

 かつてわが国の小学校の多くには、子どもたちが手本とすべき人物の銅像が、建っていました。背中にまきを背負い、本を読みながら歩いている少年の像です。その人物が、二宮金次郎すなわち二宮尊徳です。
 二宮尊徳(1787〜1856)は、神奈川県小田原市栢山(かやま)の裕福な農民の子として生まれました。しかし、尊徳が5歳のとき、そばを流れる酒匂川(さかにがわ)が氾濫し、一家の田畑はひどい被害を受けました。田畑の修復に疲れた父は病気がちとなり、幼い尊徳は父の代わりに、川の堤防工事で働きました。しかし、子どもでは一人前の働きができません。申し訳なく思った尊徳は、人知れず皆のわらじ作りに精を出しました。また、工事の賃金で松の苗を買い、洪水が来ないようにと土手に植えました。
 14歳のとき、終に父が亡くなりました。残された母と幼い弟たちのために、尊徳は朝早くから田畑を耕し、まきを拾い、夜にはわらじ作りに精を出しました。そんな尊徳は、貧しさのため寺子屋へも行けませんでした。そこで、仕事の合い間に『童子教』から『大学』『論語』などを独学しました。なんという勉学意欲でしょう! 少年金次郎の銅像は、このころの姿です。
 悲しいことに尊徳が16歳のとき、母も亡くなってしまいました。しかもその年の夏には、再び川が氾濫し、一家離散となりました。おじの家に引き取られた尊徳は、再起を目指しました。日々田畑の仕事に従事するかたわら、自分で菜の花を栽培して、種から油を搾り、それを明かりとして、夜は読書をしました。また、荒地を起こして、捨ててあった苗を拾って植え、2年で20俵を収穫しました。こうした努力と倹約によって、尊徳は田畑を少しずつ買い戻し、20歳代で生家の再興を果たしたのです。
 尊徳は、その後、小田原藩の家老服部家に奉公することになりました。尊徳は、主人の息子が儒学者の家に勉強に行くお供をし、庭先で先生の講義をじっと聞いて勉強しました。そのうちに先生も尊徳に気付き、指導してくれるようになりました。やがて服部家でその非凡さを認められた尊徳は、主家の財政の建て直しを成し遂げました。それが評価され、藩主大久保忠真(ただざね)により、桜町領(栃木県二宮町)の復興を命じられ、粉骨砕身の努力により、10年がかりでこれに成功しました。評判はさらに幕府に及び、老中水野忠邦より、印旛沼の分水掘削、日光の村々の再興などを命じられました。
 尊徳の生きた時代は、江戸時代の末期です。当時の農村は、悲惨な状態にありました。平和な時代が長く続き、人々の生活はぜいたくになっていました。その怠惰な風潮は農村にも及び、わが国全体の農地収入は3分の2に減じたといわれています。飢饉も次々に起こりました。その結果、貢租の重圧に耐えられなくなった農民は、次々と離散し田畑は荒廃しました。そのような時代に、尊徳は農村の再建、農民の救済に、懸命に努力しました。実に、約600もの藩や郡村を再興し、多くの人々を飢餓・離散から救いました。
 尊徳の思想の根本には、独自の人間観があります。尊徳は、人間と自然、人間と動物の違いをこう説きます。自然の道、「天道」は、人間が何もしなくても行われますが、人間は働かなければ生きてゆけません。勤労が根本なのです。また、動物は争い、戦い、奪い合いますが、人間は助け合い、融け合い、譲り合うことができます。尊徳は、これを人の道、「人道」といいます。世の中をよくするためには、「人道」に徹するほかはないのです。そして、人間の動物にない良いところをのばすために、尊徳は具体的な実践方法を説きました。それが、「報徳思想」です。
 尊徳の報徳思想は、「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」の四つからなっています。
 動物はエサを食べたいだけ食べますが、人間は先のことを考えて、収穫の中から、来年のための種を保存します。「まかぬ種は生えぬ」からです。そして、一年かけて一家が食べられるように配分し、どれだけ食べ、どれだけ蓄えなければならないかを計画しなければなりません。このように消費と備蓄の度合いを考えて生活をすることを、「分度」といいます。
 また、一生懸命働いて収穫を得たら、その利益を倹約するということが大切です。これを「勤倹」といいます。
 勤倹によって余りが出れば、これを足りない人に譲る心が大切です。自分のために残すものを「自譲」、他人のために残すものを「他譲」といいます。尊徳は、この両方を合わせて「推譲」といいます。
 推譲に対して、差し出された者は、感謝して、受けた徳に報いるという心が大切です。これを「報徳」といいます。つまりお返しをするということです。この時に、返し手が自分なりのお礼を加えれば、推譲の基金はいよいよ増えていきます。
 これら「分度」「勤倹」「推譲」「報徳」は、どれが欠けても完全ではありません。四つが合わさって人間の生活を全うできるのです。こういう生き方が、尊徳の「報徳思想」です。尊徳は、これをひたすら実践し、人々に広めていきました。
 「報徳思想」はただ食べて、生きていく方法ではありません。
 「わが道はまず心田の荒蕪を開くのを、先務としなければならぬ。心田の荒地を開いてのち、田畑の荒地に及んで、この数種の荒地を開いて熟田としたならば、国家社会の進展は手のひらをめぐらすように容易であろう」(『二宮翁夜話続編』)。尊徳は、田畑のことも、国家社会のことも、まず心を開拓することが第一だというのです。
 「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」(『二宮翁夜話』)とも尊徳は説いています。心の開発ができれば、国土を豊かにし、国家社会を発展させることができる。生きるために協働し、支え合いながら、自らを磨き、互いの人格を高め合うーーそれが人としての道であると尊徳は説いているのです。
 かつて二宮尊徳を歌う唱歌がありました。「柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎……」
 戦後の日本人は、子供の手本とまでしていた二宮尊徳の銅像を校庭から取り払いました。それとともに、尊徳が実践し、説き広めた精神も、かえりみなくなってしまいました。
 そして、70有余年たった今、わが国には豊かさの中で勤労の精神を忘れた若者たち、官僚の腐敗堕落等の問題が、広がっています。今日の日本人が、再び二宮尊徳に学ぶべきことは、まことに多いでしょう。

参考資料
・『日本の名著 26 二宮尊徳』(中央公論社)
・栃木県日光市にある二宮尊徳記念館の紹介サイト
http://www.nikko-kankou.org/spot/1143/

 次回に続く。

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