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2022年02月17日08:58

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日本の心68〜上杉鷹山の師:細井平洲

 上杉鷹山は江戸時代に、逼迫した財政危機を克服した名君として知られています。この鷹山には、細井平洲という師がありました。鷹山の治世は、平洲の教えを忠実に実行したものであり、平洲なくして鷹山は考えられません。
細井平洲は、江戸時代最高の学者の一人です。その教えは、鷹山のみならず、吉田松陰・西郷隆盛・二宮尊徳等にも多大な影響を与えました。
 平洲は、享保13年(1728)に尾張国平島村(現在の愛知県東海市荒尾町)で生まれました。京都・長崎で学問を修め、24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という塾を開きました。その名声は全国に伝わり、西条藩(愛媛県)・人吉藩(熊本県)・米沢藩(山形県)等に迎えられました。53歳の時には、御三家の筆頭・尾張藩(愛知県)に招かれ、藩校・明倫堂の督学(学長)にまでなっています。
 これほど偉い学者でありながら、机上の理論ではなく、現実に即した実学を重んじるところに、平洲の特徴があります。また、平洲が教えたのは、武士だけではありません。町民や農民にもわかりやすく学問を広めました。平洲が村々を巡って講話をすると、何千人もの聴衆が集って話を聞いたといいます。封建時代にありながら、生まれや身分・性別に関わりなく、誰にでも道を説いた平洲は、まことに仁愛深い人でありました。
 米沢藩主・上杉鷹山との出会いは、平洲の名を不朽のものとしました。その時、平洲は37歳、鷹山は14歳でした。
 平洲は、鷹山に君主のあるべき姿を教えたのです。「君主というものは、人の父として、母として、常に自分の藩の人々のことを考え、人々の暮らしと心を豊かにしていかねばなりません。米沢藩を立派な藩に立て直すためには、まず、あなたご自身が、手本を示さなくてはなりません。そして、藩の改革をするために優れた人物を育てることが大切です」と。
 平洲に学んだ鷹山は、わずか17歳で米沢藩主となりました。そして崩壊寸前の藩を再建するため、改革に全力を尽くしました。鷹山は、平洲の教えを実行し、藩を挙げての努力が行なわれました。その結果、米沢藩の財政は立て直され、他藩の手本となるほどになってゆきました。
 平洲が江戸から、はるばる米沢を訪ねたのは、そのころです。鷹山は、久しぶりに恩師に会えると思うと、居ても立ってもいられません。城を出て、10キロほどもある普門院という寺まで、出迎えました。藩主が自ら出迎えるなど、異例のことです。
 鷹山は「先生、お元気でしたか」と、思わず駆け寄り、涙が流れ落ちました。「ようこそいらっしゃいました。先生、どうぞこちらへ、ご案内しましょう」。鷹山は、13年ぶりに再会した平洲に深く礼をし、心からの尊敬と感謝を表しました。師弟の心は、年月が過ぎても変わることなく、深く結ばれていたのです。
 今でも、米沢の普門院のある関根という場所は、先生を敬うことの尊さを教えた「敬師の里」として、知られています。
 平洲は、また出身地の愛知県東海市でも大変尊敬されています。東海市は、平洲没後200年となった西暦2000年、平洲の偉大な業績から「21世紀の人づくり、心そだて」のヒントを探ろうと、「平洲サミット」・「平洲賞(エッセイコンテスト)」・「嚶鳴シンポジウム」等を展開しました。郷土の偉人を称え、また青少年にも教育している同市の姿勢もまた、素晴らしいものです。

参考資料
(1)童門冬二著『上杉鷹山と細井平洲』(PHP文庫)
(2)平洲記念館のホームページ
http://www.city.tokai.aichi.jp/heishu-kinenkan/

 次回に続く。

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