mixiユーザー(id:525191)

2022年02月15日08:54

61 view

日本の心67〜17歳の奮起:上杉鷹山

 かつてアメリカの大統領ジョン・F・ケネディが記者会見の時、「尊敬する日本人は?」と質問され、「ヨーザン・ウエスギ」と答え、記者団をびっくりさせました。ケネディはおそらく、内村鑑三の名著『代表的日本人』で、上杉鷹山を知ったのでしょう。
 上杉鷹山は、江戸時代の米沢藩主です。米沢藩(現在の山形県)を再興させた名君として知られています。宝暦元年(1751)7月20日、日向国(宮崎県)高鍋藩に生まれた鷹山は、母春姫が上杉家の血筋であったことが縁となり、10歳の時に、上杉重定の養子となりました。
 米沢藩は、先祖に戦国時代の英雄上杉謙信を戴く、天下に聞こえた名藩でしたが、長年失政を続けた結果、深刻な財政難に陥っていました。そんなとき、第9代米沢藩主となったのが、鷹山でした。
 米沢に入った鷹山は、ただちに藩の窮状を理解しました。そして、藩政改革に着手し、藩の復興に取り組みました。 鷹山はそのとき、わずか17歳でした。今の高校2〜3年生です。そんな若さで一国の運命を担った鷹山は、どんな思いだったでしょう。それは彼が詠んだ和歌に表されています。

 受次(うけつぎ)て 国の司(つかさ)の 身となれば
  忘るまじくは 民の父母

 つまり、鷹山は、君主というものは「民の父母」のようでなくてはならないと考えました。そして親が子を思う心をもって、領民のことを思い、国を立て直そうとしたのです。
 しかし、鷹山は、よそ者の若造でした。そんな新領主に対して、激しい反発や抵抗が起こりました。老臣たちは上杉家の過去の栄光やしきたりにとらわれていました。しかし、改革に情熱を燃やす鷹山は、自分の考えを理解する臣下を思い切って重用し、経済再建を目指しました。 鷹山の心に燃える火は、一人また一人と、藩士たちの心に、火を灯してゆきました。
 鷹山は自ら質素倹約をすることを誓いました。殿様でありながら、一汁一菜の食事です。さらには、武士でありながら、刀を鍬(くわ)に持ち替えて働きました。そして、積極的な殖産興業政策を実施し、田畑の開墾、桑・楮(こうぞ)・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など新産業の開発に力を入れました。
 そんな鷹山には、14歳のときから師とする人物がいました。それが、儒学者・細井平洲です。「民の父母であれ」というのも、平洲から教わったことでした。
 鷹山は平洲の教えに学び、改革の根本方針を「三助」としました。すなわち、自ら助ける「自助」、近隣が互いに助け合う「互助」、藩が手を差し延べる「扶助」です。そして藩主が自ら先頭に立って「三助」を実行したことで、財政危機に瀕していた米沢藩は、立ち直りました。奇蹟的な大改革が成し遂げられたのです。
 すると鷹山は35歳の若さで隠居し、治広に家督を譲ります。その時、治広に贈ったのが「伝国の辞」です。これは、国を治めるための心得を記したものです。

 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にて、我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立ちたる君にて、君の為に立てる国家人民にはこれ無く候

 この言葉は、現代の民主主義の精神にも通じるものです。ケネディ大統領が上杉鷹山の名を挙げたのは、こういう精神に感銘を受けたからでしょう。
 鷹山は文政5年(1822)、72歳で死去しました。
 「成せばなる成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」−−これは鷹山の言葉です。彼の偉業は、17歳の奮起に始まったのです。

参考資料
・童門冬二著『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫)
・同上『小説 上杉鷹山』(学陽書房)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する