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2022年02月07日12:25

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日本の心63〜孝を尽くし人を愛した聖人:中江藤樹

 人間と動物の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。親が子をかわいがるということなら、動物もやっています。それは本能だからです。しかし、子供が親を大切にし、年老いても面倒をみるのは、人間だけです。親に孝行をする点が、人間と動物を分けているわけです。実はそこに人間が動物より優れている点があるのです。
 この孝行を道徳の根本とし、自ら実践した人に、中江藤樹がいます。藤樹は、わが国でただ一人、聖人と称えられたほどの人格者でした。
 藤樹は江戸時代初期の人で、慶長13年(1608)、近江国小川村(現在の滋賀県安曇川町)に生まれました。9歳の時、米子藩の家臣であった祖父の養子となり、父母の元を離れて米子に行きます。翌年、藩主の国替えにより、祖父とともに伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住みます。15歳の時、祖父が死ぬと、藤樹は武士の身分に取り立てられます。その3年後、郷里の父が亡くなると、藤樹は近江へ駆けつけ喪に服した後、また大洲へ戻ります。藤樹は、この時、母を説得して大洲に連れて帰ることができませんでした。そのことを、藤樹は悔やみ続けることになります。
 少年の日、11歳の藤樹は儒教の経典『大学』を読みました。そして、誰もが身分に関係なく聖人になれるという教えに感動し、自分も聖人をめざそうと心に決めました。なかでも『孝経』にある、孝行は人倫の第一であるという教えに、深い感銘を覚えていました。そうした藤樹は、母親と離れ離れのままであることに、強い自責の念を感じていました。27歳になった時、藤樹は、母親を見捨てたような状態で、天下国家を語っていることはできない、自分は何をおいても親孝行を実行しなければならないと決意しました。そして、母への孝行と自身の健康を理由に、大洲藩士の辞職を願い出ました。しかし、事はうまくはかどりませんでした。しびれを切らした藤樹は、ついに藩主の許可を待たずに脱藩し、近江へ帰ってしまいます。
 親孝行のために武士の身分を返上した藤樹は、老母を養うため、近江でわずかな金で酒を買い、商売を始めました。また刀を売り払って資金を作り、村民を相手に金貸しをしました。その後、生計の一助にと医学を学び、医師として人々の病を治療するようになりました。そのかたわら、藤樹は私塾を開き、大洲藩から自分を慕ってやってきた武士や、近くの村人に学問を教えました。藤樹の人柄や生き方や思想は、多くの人々に感化を与えたのです。
 藤樹の門人に大野了佐という男がいました。了佐は生まれつき愚鈍のため、武士としてはやっていけないと父親は行く末を案じていました。それを知った了佐は、せめて医者になりたいと思い立ちました。了佐の覚悟を聞いた藤樹は、その熱意に感心して、何とかしてやろうと決心しました。藤樹はまず了佐に短い語句を二、三句教えてみたのですが、了佐はなかなか頭に入りません。朝から200回も同じ事を教え、ようやく覚えて読めるようになったかと思うと、夕方には忘れてしまいます。日々この繰り返しですから、藤樹は精も根も尽き果てるばかりでした。しかし、それでも了佐は教えを乞い続けます。その熱意に動かされた藤樹は、了佐のために医学書を書き、それを少しづつ読んでは説明して覚えさせました。おかげで了佐は一人前の医者となることができました。そして、家族を養うこともできるようになったのです。
 藤樹は初め朱子学を学びました。朱子学では「性即理」とし、「理」は宇宙の絶対法則を意味します。そして、理に合った生き方をするために、経典の教えや規範を厳守するように説きます。しかし、藤樹は朱子学に満足できず、疑問を感じるようになりました。そして、自分の内なるものを信じて進むことにします。
 自己完成をめざして努力を続ける藤樹は、37歳の時、王陽明の『陽明全書』と出会いました。陽明学は「心即理」とし、心そのものが理であり、心のほかに理はないとします。そして、人間の心に備わる生来の道徳的直観力を「良知」とし、この「良知」によって物事の是非善悪を判断して行動することを説きます(「致良知」)。
 王陽明の思想に感激した藤樹は、自身の思想を一層深めることができました。そして、道徳的規範は自己の外にあるのではなく、内に求めるべきで、心の自発にあることを悟り、自らの心学を確立します。このことにより、藤樹は、日本陽明学の祖ともいわれています。
 藤樹の思想は、「孝」を中核においています。そこには少年の日に触れた『孝経』の影響が色濃く表れています。すなわち、孝行を人倫の第一とする考え方です。
 朱子学を批判して、厳しい内省を続けた果てに、藤樹は、人の心に備わる「理」を「孝」と表現します。藤樹において、「孝」は宇宙の根本原理とされます。そして、「孝」が人間生活に現れる形を、藤樹は「愛敬」と呼びます。「愛敬」の「愛」とは「人々が親しく睦まじく交わること」、「敬」とは「下は上を敬い、上は下を軽んじないこと」という意味です。いわば、縦のつながりと横のつながりの両方において、人と人が愛し合い、助け合う姿です。それが「愛敬」であり、宇宙的な原理、「孝」の表れだとするのです。
 そして藤樹は説きます。「人間の内面には、天下に二つとない霊宝がある。この宝は、天において『天の道』、地においては『地の道』、人においては『人の道』となる。この霊宝を、昔の聖人は『老いた親を子が背負う姿』をかたどって『孝』と名付けたのである」と。(『翁問答』)
 現代人にとって、こうした「孝」の思想はなじみにくいかもしれません。それならば、「孝」を「愛」に置き換えてみると理解しやすいでしょう。親子の「愛」を宇宙の原理にまで高め、人間の共同性の根本においたのが、藤樹の思想であるわけです。キリスト教のように、無差別的で観念的な隣人愛を説くのとは違い、現実的な親子の愛を、身内から周囲に押し広げるところに、東洋的また日本的な特徴があります。自分の親を大切にすることを実践せずして、遠くの人への愛を説くのではないのです。
 藤樹は、体が弱く喘息もちでした。彼の生涯は、41歳で幕を閉じます。その短い人生において、藤樹は母を愛し、妻子を愛し、門人を、また村人を愛しました。そんな藤樹は、いつしか「近江聖人」と称えられるようになりました。
 「人は誰でも生まれつき美しい心を持っている。心を磨き修養に努めれば、誰でも立派な人になれる」と藤樹は説き、実践しました。こうした思想は、後の石田梅岩や細井平州や二宮尊徳にも見られるものです。封建的な身分制を超えた彼らの人間平等の思想は、庶民における日本精神を豊かなものにしていったのです。

参考資料
・『日本の名著 11 中江藤樹・熊沢蕃山』(中央公論社)
・『人と思想 45 中江藤樹』(清水書院)

 次回に続く。

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