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2022年01月16日08:57

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日本の心52〜剣の道から真理の道へ:宮本武蔵1

 「道」という言葉は、何かの技術や趣味を表す言葉につけて用いられます。たとえば、茶道、華道、書道、柔道、合気道など。このように「道」という言葉がつくと、単なる技術や趣味ではなく、それ以上のものが含意されます。すなわち、技術の熟達や趣味の追求を通じて、精神的に高い境地を目指すものが、日本の「道」なのです。
 そうした「道」の数あるなかでも、剣の道は、特異なものといえるでしょう。なぜなら、この道は、剣を用いて戦う、命がけの道だからです。この剣の道を極めて、高い精神的境地に達した人に、宮本武蔵がいます。
 若き日の武蔵は、関が原の戦いに参加したと考えられています。この戦いを制した徳川家康が天下を治め、戦国時代は終わりました。その結果、本来、専門的な戦闘者であった武士たちは、実戦の場を失いました。彼らは、太平の世の中で文民・官僚的な存在に変わっていきます。しかし、その時代にあってなお、武蔵はあくまで戦闘者であろうとし、独自の道を歩みました。
 武蔵の生年は天正12年(1584)頃、出生地は岡山県英田郡大原町宮本といわれますが、異説もあります。幼少の頃から剣を好み、13歳の時、初めて試合をして打ち勝ち、以後、諸国を巡って剣の道一筋に自分を錬磨しました。29歳の時、佐々木小次郎と巌流島で決闘するまで、60回余の勝負をし、一度も敗れたことがありませんでした。
 これは想像を絶する実績です。私たちは現代において、大山倍達、ヒクソン・グレイシー、アーネスト・ホーストなどの武の達人を目の当たりにしていますが、武蔵が彼らと決定的に異なるのは、文字通りの真剣勝負を生き抜いたことです。剣の道とは、刃物による決闘です。斬られれば、自分が死ぬのです。またその戦いは一対一の戦いに限りません。武蔵は時には一人で十人、数十人を相手とし、ことごとく打ち破って、生き残りました。凄絶というほかありません。
 最大のライバル・小次郎と雌雄を決した武蔵は、巌流島を最後に決闘をやめます。その後の武蔵は、諸国を周遊し、さらに剣の道を深めていったようです。そして50歳にしてついに兵法の道を極めたという自覚に至ります。その後、自ら到達した境地を書物に書き著すことになります。
 武蔵は晩年、熊本の細川家に迎えられました。ここで藩主・細川忠利に求められて、『兵法三十五箇条』を書きました。この書は、剣の技術をひたすら具体的に箇条書きにしたものでした。それをもとに、さらに踏み込んで書き記したのが、畢生(ひっせい)の著、『五輪書』です。ここで武蔵は、剣の技術だけでなく、武士のあり方や武士としての心の持ち方までを説き、兵法の奥義を説き明かしています。
 『五輪書』は、近年アメリカでもベストセラーになり、ビジネスマンによく読まれているといいます。
 『五輪書』の構成については後に述べることして、まず本書における武蔵の根本姿勢について触れておきたいと思います。根本姿勢とは、武蔵は、剣の道において何よりも大切なことは、勝つことだとし、勝つことを、兵法の第一にあげていることです。武蔵は次のように書いています。「武士の兵法を行う道は、何事においても他人に勝つことを根本とする。一対一の斬り合いにおいても集団戦においても、勝って、主君のため我が身のために名をあげ身を立てようと思うことが、武士の本領である」と。
 そして、武蔵は、断じます。「ただ死を覚悟して生きよ」という『葉隠』も、「日々道徳的に自分を律して生きよ」という大道寺友山や山鹿素行の書も、「武士が武士である拠りどころ足り得ない」と。それらは武士以外の身分の者でもできる。「他の身分と武士との違いは、戦いに勝つことを第一義に考えるかどうかだ」と武蔵は言うのです。
 武蔵独自の二刀流も、生きるか死ぬかの厳しい戦いの中から生み出された必勝の剣法でした。それが「二天一流」です。

 次回に続く。

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