mixiユーザー(id:525191)

2021年06月23日08:37

167 view

仏教171〜「信じる宗教」と「目覚める宗教」

◆「信じる宗教」と「目覚める宗教」

 ケネス・田中は、アメリカで仏教に目を向ける人々は、仏教を「信じる宗教」(religion of faith)ではなく、「目覚める宗教」(religion of awakening)ととらえているという。田中は、次のように書いている。
 「どの宗教でも経典を信じ指導者を信頼することは大事である。仏教徒もこれは必須ではあるが、仏教徒の最終目標は信じた後の『目覚め』である。つまりブッダ(目覚めた者)になることこそが最終目標である」(『目覚める宗教』)
 「キリスト教から仏教へ改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を『信じる』ことより、煩悩による誤った見方を是正して自らが『目覚める』ことを究極の目的にする仏教の教えのほうが魅力的だと答える人が実に多い」(『目覚める宗教』)。
 彼らは「キリスト教などには、立派な教義があるが、その教えを体験する方法が明確ではないのに対し、仏教は誰もが日々実践できる瞑想などを通して実際に教えを体験できることにひかれると話す」(「欧米人を魅了する仏教の秘密 信じる宗教から目覚める宗教へ」中日新聞2011年12月3日夕刊)。
 「欧米では(略)多くの人がこの『目覚める宗教』に魅了されている。ただ単に教えのみを信じ込む従来型の宗教形態が、欧米のような先進国では崩れ始めているといえる」(中日新聞2011年12月3日夕刊)
 このように、田中は、欧米では「信じる宗教」から「目覚める宗教」への移行が起こっているという。この移行は、受動的な姿勢から能動的な姿勢へ、追従的な心理から主体的な心理へ、集団的から実践から個人的な実践へという変化といえよう。こうした変化が、特にアメリカにおけるキリスト教から仏教への移行において起こっていると見られる。
 田中は、宗教において信じることの重要性を否定しているのではない。「どの宗教でも経典を信じ指導者を信頼することは大事である。仏教徒もこれは必須ではある」と述べている。そのうえで、「仏教徒の最終目標は信じた後の『目覚め』である」と強調する。
 この点について、私見を述べると、まず問題は、信じることの内容だろう。アメリカ人のキリスト教徒には、キリストの復活等が信じがたくなっている。そこで彼らの一部は仏教に魅力を感じるというわけだが、彼らが仏教の複雑で多様な教義内容を知れば、そこにも信じがたい点が多くあることを見出すだろう。アメリカ仏教の指導者は、教義の教育を重視せず、実践中心の指導をしている。そのため、多くのアメリカ人は仏教を真に信じられるかどうかという壁にぶつかることが避けられているのだろうと私は考える。
 また、田中が仏教徒の最終目標は「信じた後の『目覚め』」であると主張する点についても検討が必要である。田中は浄土真宗を信奉しているとのことだが、浄土真宗は、修行の必要がなく、信仰による救済を求める宗派であり、他力宗と呼ばれる。浄土信仰では、阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏による救済を求める。阿弥陀浄土への往生は、多くの信者にとって「目覚め」とは意識されていないだろう。信仰の目標は、「目覚め」ではなく救いだからである。実際のところ、アメリカ仏教で「目覚め」を目指すのは、禅・密教・部派仏教の系統である。日本では、それらの宗派は、修行を重んじ、自力による成仏を目指すことから、自力宗といわれる。そして、自力ではいかなる難行苦行をしても「目覚め」に到達し得ないということから、阿弥陀信仰や法華経信仰が盛んになったという歴史がある。
 次に、仏教の最終目標は「目覚め」、言い換えれば悟りだが、実際にどれだけの実践者が悟りに到達し得ているかということである。ここで悟りに到達したというのは、ブッダ(悟った者)になったという意味である。(註1)仏教の2千数百年の歴史で悟りに到達し得たと認められる者は、ごく少ない。弥勒信仰では、釈迦の入滅後、弥勒菩薩が下生するまでの間は無仏の時代であり、誰も悟りに至れる者は現れないと予想されている。アメリカ仏教の60年ほどの歴史において、釈迦に続いて悟りとしての「目覚め」に到達し得たと客観的に認められる者は、何人いるのだろうか。仏教の歴史では、釈迦の教えに従って出家して一生を修行に打ち込んだ者たちであっても、ほとんどが悟りに至り得ずに、今日に至っている。それゆえ、アメリカ仏教では、出家をせず、在家者の立場で、厳しい修行をすることなく、半ば世俗的な生活をしながら、「目覚め」に到達し得ているとは、非常に考えにくい。アメリカ仏教では大安楽往生の確かな事例の報告が見られないことは、何らかの精神的な向上はできても、大安楽往生を達成するには、至っていないことを意味するだろう。
 それゆえ、「信じる宗教」としてのキリスト教から「目覚める宗教」としての仏教に移行したと思っている人々は、新たな種類の混迷の領域に入り込み、幻滅と失望に至る可能性が高い。


(1) 田中は、仏教徒の最終目標を「目覚め」とし、ブッダ(悟った者)となることとしている。だが、伝統的な仏教では、田中のいう「目覚め」すなわち「悟り」に至るまでには、いくつかの段階があるとされている。インド仏教では、「悟り」に至る修行の段階を、見道、修道、無学道の三道に分ける。また、修行の道を進む聖人を預流、一来、不還、阿羅漢の4つの階位に分け、これらにそれぞれ向と果の級位を設けて、四向四果とし、合わせて8つの階級があるとしている。また、「悟り」に至る過程で、自己亡失、真如顕現、自我解消、基層転換、叡智獲得という5段階の体験があることを大竹晋は、解明している。田中の所説は、伝統的な三道、四向四果、「悟り」に至る過程での5段階の体験を無視して、究極の「目覚め」すなわちブッダになる「悟り」のみを説くものである。
 もしアメリカ仏教に、三道、四向四果、「悟り」に至る過程での5段階の体験が知られていないとすれば、アメリカの仏教徒は、伝統的な仏教では、聖人の体験とは見なされないレベルの体験を以て、究極の「悟り」に近いものと誤解し、仏教の修行を極めて安易に捉えていることになるだろう。伝統的な仏教では、聖人の最も低い階位である預流とは、天上道と人間道を七度往復する間に修行が進んで悟りを得る者とされている。すなわち、輪廻転生を7回繰り返して、ようやく悟りを得ることのできるレベルということである。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************ 
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する