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2021年06月01日09:21

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仏教161〜心理療法への応用、メディテーションの課題

#仏教の心理療法への応用
 アメリカでは、家庭内暴力や親の愛を感じられないなどの悩みを持ち、心のケアを求め得ている人が多い。その人々のために心のケアを行う心理療法(サイコセラピー)にも、仏教のメディテーションが応用されている。
 精神科医のマーク・エプスタインは、20歳代から仏教を実践し、仏教的な瞑想を心理療法に取り入れている。彼は、インサイト・メディテーションを創設したゴールドスタインやコーンフィールド等とともに、タイでテーラワーダ仏教を学んだ。
 エプスタインは、1995年(平成7年)に著書『思う人なき思いーー仏教的観点からの心理療法』(邦題『ブッダのサイコセラピー―心理療法と“空”の出会い』)を出版した。本書は、仏教徒であり精神分析家でもある著者が、仏教のメディテーションの概要と可能性を精神分析的な心理療法の用語で説明しており、心理療法の専門家からも高く評価されているという。
 エプスタインは、本書で、心理療法は長年にわたる発達の中で、仏教の思想との類似点が明らかになってきたことを指摘する。心理療法は、精神分析の方法を応用することによって苦悩の原因を特定し、明らかにすることはできるものの、それを治療する有効な方法を開発できずにいる。そのため、分析に終わりがない。そこに解決の道を示すものが、釈迦が教える瞑想だ、とエプスタインは主張する。自己の感情を見つめるメディテーションは、怒り、恐れ、欲望等の感情や心の痛みを緩和する。現代には、自分の感情を知り、それと向き合うための心理療法と、宗教的な救済をもたらすメディテーションとの両方が必要だとも主張する。
 エプスタインは、トラウマ(精神的外傷)に対するフロイトのアプローチと釈迦の教えの統合を試みている。フロイトが仏教を含む東洋宗教の神秘体験を「幻想」や「大洋的感情」にすぎないと考えたのは、彼が仏教のメディテーションには自己の観察と分析という側面があることを知らなかったからであると指摘する。そして、仏教のメディテーションは、神秘主義への逃避ではなく、心のすべての面を観察の対象とするものであり、現実社会の否定ではなく、日常生活の観察であり、これこそ心理学であると主張している。
 本書の刊行後、エプスタインは、仏教について、次のように語っている。
 「仏教は、世界の宗教でも最も心理学的な宗教であり、世界の心理学の中でも最もスピリチュアルなものだと考えています。仏教は、スピリチュアリティが見出だし難い西洋世界において非常に重要なものです」。と。(『サンガジャパン』Vol.17)
 また、アメリカにおける仏教のメディテーションについて、現状を次のように語っている。
 「多くのキリスト教徒は、子どもと一緒に教会へ行き賛美歌を歌いますが、瞑想をしたりヨーガを学んだりすることに何も抵抗を感じていません。それは、彼らは仏教を宗教というより、実践的なものから何かを学ぶものだと理解しているからです。つまり、仏教の宗教性は隔離され、心に通じるもの、身体のリラックス方法として理解されているのです」(同上)と。
 マインドフルネスにおいても、またメディテーションを取り入れた心理療法においても、アメリカでは、仏教のメディテーションが、宗教という枠を越えて、病院や心理治療所等で医療や心のケアの方法として実践されている。メディテーションがストレスや痛みの軽減、免疫機能の強化、トラウマからの解放等に効果的であると認められているわけである。

#仏教系のメディテーションの課題
 仏教は、約2500年の歴史を持つ。その間に、仏教は様々な形に変化し、多様化してきた。そのうち、もっとも初期仏教に近いあり方を保ってきたのが、南伝仏教のテーラワーダ仏教(上座部仏教)である。テーラワーダ仏教は、約2000年という長い歴史において、出家者は厳しい戒律を守って修行生活を行ない、在家者は出家者を支えるという体制を維持してきた。そこに、釈迦の時代のあり方に近い部派仏教の姿をとどめている。ところが、アメリカにおいて、その伝統的な仏教が一気に一種の在家主義に転じた。いわば大乗化した。さらに解脱を目標とする本来の仏教から、気づきやストレスの軽減を図る方法へと変化した。これは、極めて短期間に起こった、ものすごい触れ幅の変化である。
 仏教学・アメリカ仏教の研究者ケネス・田中によると、インサイト・メディテーションに対しては、テーラワーダ仏教の側から、伝統を軽視しすぎているという批判がある。テーラワーダ仏教の一部である修行法のみを選び取り、儀式・教義・世界観という他の部分を無視している、この世での社会参加や自由を強調する反面、仏教の本来の目標である悟りを軽視している、悟りへの過程ではコミュニティという周りのサポートは欠かせないが、極端に個人を重視してコミュニティを軽視している等の批判がある。(『目覚める宗教−アメリカが出合った仏教 現代化する仏教の今』)
 私は、これらの批判は、単にテーラワーダ仏教の側における伝統への固執や保守的な姿勢と見るべきではないだろうと思う。仏教に基づく瞑想については、一般向けに簡略化されたり、医療行為に応用されているものを含めて、そこに潜む問題点にも目を向ける必要があると考える。詳しくは、日本仏教の節の「悟り体験と異常心理」及び「宗教の開祖・霊能力者の見分け方」の項目に書いたので、ここでは簡単に繰り返すと、宗教的な実践としての修行の過程では、潜在意識の中に蓄積されている過去の記憶や感情、イメージ等が湧き上がってくることがある。その感情や想念に顕在意識が飲み込まれてしまうと、精神的に不安定になり、最悪の場合は、人格が崩壊する恐れがある。仏教は、もともと出家して解脱を目指す宗教であり、修行の過程で現れる精神的な現象に対応し、それを乗り越えて、修行を進める知恵や経験が蓄積されてきたものと見られる。ところが、修行における危険性やそれへの対処法について無知であったり、軽視した状態で、安易に熱心に修行を行うと、大きな失敗に陥る可能性がある。簡略化・医療化された瞑想法についても、こうした可能性を否定すべきではない。
 マインドフルネスやメディテーションを取り入れた心理療法が、主に対象としているのは、個人の心の様々な問題である。それらの問題は、個人の意識の領域から無意識の領域にまたがるものだろう。フロイトは個人的無意識の分析を行ったが、個人的無意識には誕生後の体験に基づくものだけではなく、グロフが発見した出生前後の記憶がある。また、無意識は個人におけるものだけではなく、ソンディが発見した家族的無意識やユングが発見した民族的・人類的な集合的無意識も想定される。家族的無意識は、日本の仏教が因縁と呼んでいる先祖から子孫に受け継がれる経験や感情、生き方等を含む。民族的・人類的な集合的無意識は、宗教や文化の違いを超えて共通する元型的なイメージとなって現れる。その代表的な例が密教で重要視されるマンダラ(曼荼羅)である。ユングはそれを自己の元型的イメージと解釈した。
 宗教であれ、医学であれ、心理学であれ、人間の心の領域を深く掘り下げていけば、個人的無意識から家族的無意識、民族的・人類的な集合的無意識へとつながっていくことを理解して、メディテーション等の儀礼や修行を行なうことが必要だと私は考える。この点については、拙著『超宗教の時代の宗教概論』及び『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』をご参照願いたい。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

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