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2021年01月29日08:37

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仏教107〜明恵の生涯と思想

●既成仏教の動き
 
 鎌倉時代には、次々に現れる新宗派の活動に刺激を受けて、既成の宗派の側でも改革の運動が興った。禅宗を除く新宗派は、戒律を軽視したり、ほとんど無視した。これに対して、法相宗の貞慶(じょうけい)、華厳宗の明恵(みょうえ)、律宗の叡尊・忍性(にんしょう)等が戒律の復興運動を進めた。彼らは、特に称名念仏の流行によって、解脱を目指す修行が軽んじられることを批判し、自ら厳格な修行を実践し、また弟子に教えた。彼らには、社会奉仕活動や貧民・病人の救済活動に尽力した者が多い。仏教の本来の姿を求めて戒律を重んじた僧侶が、民衆の幸福のために利他的な活動に献身したことは、特筆されるべきことである。
 武家が勢力を強めるなか、天台宗の座主となった慈円は、武家に好意を寄せ、公武協調を主張する歴史書、『愚管抄』を著した。本書は、仏教の立場から日本の歴史の中に現れている道理をとらえ、それに基づいて日本国のあるべき姿を明らかにしようとしたわが国初の歴史哲学の書でもある。
 日蓮が予言した元寇の時には、既成仏教の指導者が皇族とともに日本防衛のための祈願を行なった。これは国家仏教の伝統による実践だった。神風が吹いて日本が守られたというとらえ方が出て、神国思想が発達したのは、既成仏教の指導者が鎮護国家の祈願を積極的に行ったことと無関係ではない。
 鎌倉時代の仏教というと、一般に新宗派の革新性や民衆化が強調されるが、既成の仏教においても、このような真摯な努力や社会貢献、国家公共への献身があったことを見落としてはならない。
 既成仏教の指導者たちの中で、特に注目したいのは、明恵と叡尊である。

◆明恵

・生涯
 明恵は、鎌倉時代初期の華厳宗の僧侶で、華厳宗中興の祖とされる。生年は1173年(承安3年)、没年は1232年(寛喜4年)である。生年は法然より40年遅く、親鸞とは同年である。
 16歳で出家し、東大寺戒壇院で受戒し、華厳教学や倶舎論を学んだ。衰退していた華厳宗を再興しようという志を起し、修行と読書思索の生活を続けながら、密教の研究も行った。
 釈迦を熱烈に敬慕し、インドに渡航しようとしたが、奈良の春日大社の春日権現の託宣により、計画を果たせなかった。春日大社は、藤原氏の祖先神・天児屋命等を祭神とするが、本地垂迹説により、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音を本地仏としている。
 インド行きを諦めた明恵は、シナから新しい禅を伝えた栄西のもとで禅を修めた。明恵は、新宗派である禅宗を排斥するのではなく、学びの対象としたのである。
34歳の時、後鳥羽上皇より京都の栂尾山を賜り、高山寺(こうざんじ)を復興して、華厳宗再興の道場とした。
 もともと仏教の実践の目標は、輪廻転生の世界からの解脱である。基本は、出家して修行することである。その実践には、戒・定・慧の三つが備わっていなければならない。戒は戒律、定は瞑想、慧は悟りの智慧を意味する。戒を守り、定を修めることによって、慧が得られるとする。
 明恵は、戒・定・慧の三学の改革を主張し、戒としては菩薩戒、定としては華厳経を読誦しながらの座禅、慧としては華厳宗と真言宗の教理を総合した教義を打ち出して、戒律を順守して学問の研究と修行の実践を行うあり方を示した。
 新宗派に対しては、39歳の時に『摧邪輪』を著して、法然が『選択本願念仏集』で説く専修念仏は邪道であると批判し、浄土宗教団に論戦を仕掛けた。法然が亡くなった年のことである。明恵は、特に法然が菩提心を無用としていること、また他の宗派を正しい浄土信仰をはばむ群賊扱いしていることの二点は許しがたいとし、法然は「近代の法滅の主」であり、「三世仏家の大怨敵、一切衆生の悪知識」と呼んで強く非難した。
 明恵は、栄西がシナから持ち帰った茶の栽培を受け継ぎ、その普及に尽くしたことでも知られる。

 次回に続く。

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