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2021年01月21日08:36

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仏教104〜道元の生涯と思想

◆道元

・生涯
 栄西より半世紀ほど後、道元が宋に渡り、曹洞禅を伝えて、日本の曹洞宗を開いた。道元は、インドからシナに渡来して禅宗を始めた菩提達磨の禅風への復帰を志した。『正法眼蔵』を著わして、ひたすら坐禅に徹する只管打坐を唱えた。生年は1200年(正治2年)、没年は1253年(建長5年)である。
 道元は、内大臣・源通親(みちちか)を父、摂政太政大臣藤原基房の娘を母として誕生した。法然は地方官吏の子、一遍は地方豪族の子、日蓮は漁師の子、栄西は地方の神職の子だった。彼らに比べ、親鸞は貴族で高官の子として高い身分に生まれたが、道元は高級貴族で太政官の子として極めて高い身分に生まれた。
 幼くして両親を失い、14歳の時、比叡山で出家し、天台宗を学んだ。そこで「本来本法性 天然自性身」という言葉に出会った。これは「人はみな本来、仏性を具えており、そのままですでに仏である」ということを意味する文言である。では、どうして本来、仏性を具えているはずの三世の諸仏が悟りを求めて修行したのか、という疑問が湧いた。比叡山やその他の学匠に問うたが、満足な解答を得られない。そこで、18歳の時、比叡山を出て建仁寺に入り、そこで栄西の高弟・明全に師事した。厳しい修学の末、印可を受けた。印可とは、師僧が弟子の悟りを証明することである。だが、道元はそれで満足しなかった。
 23歳の時、明全とともに入宋した。天童山をはじめとする諸山を歴訪した後、天童山に戻り、住持の如浄(にょじょう)への弟子入りがかなった。約3年間、如浄の指導を受けて曹洞禅を修学する中で、遂に積年の疑問が解けた。自己に本来、備わっている仏性は、修行によってはじめて実現するものであるという確信を得たのである。如浄の印可を受けた道元は、病に罹って客死した明全の遺骨を持って、28歳の時に帰国した。
 その後、建仁寺に住み、座禅と著作と学問に専心した。30歳頃から、座禅の意義を明らかにし、さらにそれを究めるために、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を書き始めた。
 道元の禅は、只管打坐というように座禅に専念するものである。だが、道元は問答の評釈を盛んに行っており、問答形式を否定してはいない。禅を組むだけでなく、書物を著したのは、言葉を用いて考えることが重要だと認めていた証である。
 道元は、34歳で京都・深草に興聖宝林禅寺を開き、禅を教えて門弟を育成した。約10年後の43歳の時、越前に移った。その地で大仏寺を開き、後に名を永平寺と改めた。京都を離れて越前に拠点を構えた理由としては、天台宗からの圧迫が激しくなったこと、権力や貴族から距離を置こうとしたこと、深山幽谷に居を構えて座禅を組むことを勧める如浄の遺訓に従ったことなどがあるとされる。
 道元は、永平寺で禅の実践に打ち込み、行住坐臥のすべてが禅に連なることを教えて弟子の養成に努めた。また、ここで『正法眼蔵』を書き続けた。
 禅宗は、栄西においては天台宗・真言宗との妥協が見られたが、道元は、これを純化し、禅一筋の道を確立した。北条時頼に請われて一度、永平寺から鎌倉に行って禅を教えた。だが、寺院の建立は固辞して越前に帰った。また、天皇が高僧に下賜する紫衣を後嵯峨天皇から賜わったが、身につけることはなかった。このように、道元は、政治権力に接近して名利を得ようとはせず、専ら禅に打ち込む人生を貫き、53歳で没した。
 道元の言葉は、高弟・懐奘(えじょう)によって『正法眼蔵随聞記』に筆録され、後世に伝わっている。

 次回に続く。

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