mixiユーザー(id:525191)

2021年01月03日10:12

45 view

仏教99〜親鸞の『歎異抄』

◆親鸞(続き)

 親鸞の晩年の言行は、『歎異抄(たんにしょう)』に記されている。弟子の唯円 (ゆいえん) らがまとめたものと見られる。
 親鸞は、本書で「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、しかるに世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」と説いた。これを悪人正機説という。善人すなわち阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んで悟りを開こうとする者でさえ往生できるのだから、悪人すなわち煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのは、いうまでもないということを意味する。
 『歎異抄』において、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で始まる部分は、大意次のように書かれている。
 「善根を積み、自力の念仏によって救われようとする善人でさえ往生することができる。ましてや煩悩具足の悪人たる自己を自覚し、すべてを阿弥陀仏の努力と心遣いに任せきって、自分の計らいを何一つ差しはさまない煩悩具足の悪人が救われるのは当然ではないか。(中略)煩悩具足のわれわれは、どのような修行によっても迷いの世界から脱れることのできないのを、弥陀が憐れんで、そうした人間を救おうとして誓願を起こした真意は、煩悩具足の悪人を仏にさせるためである。したがって、心から弥陀の他力を頼み奉る煩悩具足の人間が、弥陀の救いの第一の相手である。それゆえ、善人でさえ、その心を翻せば救われる、まして悪人が救われるのは当然ではないか」と。
 また、『歎異抄』で親鸞は、阿弥陀仏への念仏にまさる善行はないとして、大意次のように説いている。
 「弥陀の本願は、年齢や善悪によって人を区別しない。ただ信心だけが必要だと思え。その理由は、罪悪が深重で、煩悩が盛んなわれわれ人間を救うための本願だからである。それゆえ、弥陀の本願を信ずるならば、その他の善行は必要ない。念仏は絶対であり、念仏に優る善はないからである。煩悩に狂わされ、前世の宿業の絆に操られて犯す悪を恐れ、心配する必要はない。弥陀の本願の救いを妨げるほどの悪は、われわれ凡夫が犯す悪にはあり得ないからである」と。
 悪人正機説は、阿弥陀仏への絶対的な信仰に基づく。親鸞は、阿弥陀仏の本願について、「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり」という。自らが悪人であることを自覚し、絶対他力にすがることが、極楽往生の道である。ひたすら阿弥陀仏に帰依し、救済を祈願するためではなく、救済を保証してくれていることへの感謝を表すために「南無阿弥陀仏」と唱えるという絶対他力の信仰を、親鸞は説いた。
 ここに他力本願は極致に達した。それゆえに、この教えに実証が伴っていなければ、ただ信徒に希望を与えるだけで、信徒の期待を裏切ることになる。そもそも阿弥陀仏は実在するものではない。民衆の願望が形象化されたものにすぎない。当然、実証を伴うものではない。それにもかかわらず、その架空のものを信仰対象とし、救われると信じ、すべてを委ねるという心理は、現実世界の悲惨と苦悩の深さの現れだろう。
 親鸞は、法然が変成男子による女人往生論を説いたのに従い、同様の女人往生論を説いた。悪人正機を説いた親鸞にしてなお、女性が女性のままで往生できるという思想は持っていなかった。
 男性として悪人を自覚する親鸞は、肉食妻帯を行った。非僧非俗を宣言し、信者を「同朋同行(どうぼうどうこう)」と呼んだ。そして、民衆とともに、阿弥陀信仰の道を歩んだ。ここで肉食とは、魚や動物の肉を食べることをいう。釈迦の不殺生の教えにより、戒められていたことを、親鸞は破った。平安時代初めから鎌倉時代にかけて僧侶の妻帯が多く見られ、親鸞の頃には珍しいことではなかった。だが、親鸞は公然と妻帯したことによって、破戒僧として色坊主・堕落坊主等と罵倒され、石を投げられ槍まで突き付けられた。親鸞が僧侶の身で妻帯したのは、六角堂で救世観音が女犯を許したからだとされる。親鸞は、よほど色欲に悩み、それが煩悩の最大のものだったのだろう。
 親鸞以後、浄土真宗では来世救済に徹し、現世利益を否定して呪術を排斥した。日本の仏教は、古代から呪術を行うことを重視してきたので、真宗の例は珍しい。伝統的に呪術を行うには色欲を抑えることが必要と考えられていたので、親鸞が公然と妻帯したことと、彼が呪術を否定したことには、関係があると見られる。
 仏教は日本に来て、家族制度と完全に融合した。僧侶が妻帯し、子孫を作り、寺院・教団を世襲する。これは本来の仏教とは、全く違う。『法滅尽経』が予言する仏法の衰退した社会の現実化である。だが、この変化は、神道の側から見れば、仏教における不自然な規律・制約が除かれて、人間本来の自然な生き方が回復したことである。仏教の神道化であり、日本化である。親鸞の場合、仏法から神道に転じて人間本来の自然な生き方をしながら、本地として阿弥陀仏を信仰するという道もあっただろう。だが、彼は法然とともに神祇不拝を説き、日本の神々に対して欠礼した。自らの生命のもとである祖先神や日本の自然に基づく自然神を排除し、外来の架空の観念を信仰対象とした。
 親鸞が創始した浄土真宗は、今日、わが国屈指の巨大教団となっている。親鸞の思想は、多くの日本人に支持されている。ほとんどの人はそこに真の救いはあるか、救済の実証はあるかということを考えもしない。漠然とした期待を安心とし、心の支えとして、生活している。だが、死んで初めて期待を裏切られたことに気づいても、もう遅い。いくら悔やんでも、人生はやり直しがきかない。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『人類を導く日本精神〜新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1

************************************
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する