mixiユーザー(id:34218852)

2020年08月12日10:37

89 view

歴史の物語(24) 鈴木 健「縄文語発掘」新読書社2000

 1枚目 志木市の田子山富士塚
 2枚目 女化神社 土浦のそばにある女化(オナバケ)神社で、稲荷神社なのだが、むしろ二人の子狐の母狐が主役のようだ。彼女は安倍晴明の母とされる葛の葉狐とそっくりの伝承を持っている。和泉の信太の森から勧請したというより、各地に似たような伝承があったような気がする。
 3枚目 江戸時代の霞ケ浦の地名 見にくいが、左、中ほどに小野川、その霞ケ浦近くに江戸崎、その上に(信太)古渡とある。左端上が土浦、中央上に常陸国府の石岡。
 写真はネットから。

 著者は、水戸生まれで、高校教師を務めた後フリーライター。

 かってアイヌ人は日本人とは関係のない別人種とみられていた。日本語とアイヌ語に似た言葉があるとそれはアイヌ人が日本語から借用したと考えていたのである。
 アイヌ語学者の金田一京助は、アイヌ語で川をあらわすナイやベツは白河の関より南にはない。この地名分布は古代にはアイヌ人が北東北にも数多く住んでいたことを示している。またアイヌ人は白人系だと思っていると述べている。
 柳田国男も北海道以外の内地地名は日本語で説明できる。それをアイヌ語で改めて解釈する意味はない。
 新村出や大野晋などの国語学者も日本語とアイヌ語の対応を否定していたのである。

 しかし近年になって人類学者の埴原和郎が、白人説を主張していた北大の児玉作左衛門研究室によるアイヌ人の頭骨計測値を改めて統計分析した結果アイヌに最も近いのは縄文人(の頭骨)であることを証明したのである。
 著者の鈴木は言葉の上からアイヌ人が日本人の祖先である縄文人であったことの証明を企てたのである。その手段は地名なのであるが、地名は地形に基づいていることが多いので、また変わることがあまりないから(新しい支配者であっても混乱するから元の名を残し、ただ命名の根拠・語源を自分で作るのだろう。だからか、記紀の地名説話はダジャレみたいなのが多い。)。アイヌ語で現実の地形と一致した場合、これをアイヌ語地名とする。また、アイヌ語に当てはめるときには、漢字の読みそのままでなく、方言や時代による変化を考慮に入れている。
 茨城県の地名が多いのは、著者が茨城県の人だからであるが、それだけでなく、かっての定説が白河の関(福島県と栃木県境で、茨城県は栃木県の東に並んでいる)より南にアイヌ語地名無しだったから、茨城県にあれば定説を覆せるのである。
ここでは、いくつかの面白い結果を例示する。
 ★海風注:著者は金田一や柳田など大学者の無理解を嘆いているが、わたしも金田一のエピソードに驚いたことがある。何で読んだか忘れたのだが、金田一の雇ったお手伝いさんの挙動がおかしいので様子を見ていると、何か押し入れに向かって拝んでいたのである。それで開けさせたところ、狐の首が出て来た。で、厳しく叱ったとのことなのだが、なぜ?
 迷信だということか、虫が湧くと言うことか、まあどちらもあったのだろうが、一人雇われてきた若い女中さんの気持ちが分からないのかと思ったのである。
多分、狐は女中さんの故郷では守り神だった。それで一人で旅立つときに親が持たせたのでなかろうか。悲しいことがあれば拝みなさいと。
 稲荷神社の神様の名前はウィキでも見ないと思い出せない。渡来人が持ち込んだ神だとのことだが、漢字の通り稲に関係するのか、でなくて、今見るような商売の神様なのか知らないのだが、日本で信仰されていた狐を渡来神の使いと位置付けたのでなかろうか。
だから、どこか分からないが、女中さんの地元では狐そのものを拝んでいたのでないかと思えるのである。

 1.北茨城市平潟(ヒラカタ)漁港
 ここは福島県境で勿来(なこそ)の関の近くだが、三方を崖に囲まれた湾である。なぜ潟なのか。また何が平らなのか。
 薩摩方言では「ヒラ」は崖。東北地方北部、伊豆諸島、上越地方、九州東南部などでも急傾斜地をヒラという。近くのひたちなか市の平磯村は三方を丘陵に囲まれ海に面した東側に集落があったことから名づけられたとのこと。
 また琵琶湖西岸の比叡山の北に延びているのが比良山系。古事記には黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)がある。イザナミが葬られたのは洞窟墓のようで、崖の上だったと考えられる。
 そしてアイヌ語で崖は「ピラ」だった。ヒラではないのだが、アイヌ語では清音、半濁音、濁音を区別しない。日本語の場合は、地域差はあるが、初めのp音が、f音、h音へと変化したのである。

 次に「カタ」であるが、室町時代の文書では「平方」の漢字が当てられていた。「方」なら、方角や場所を示している。啄木の歌にある盛岡の城が「不来方(コズカタ)、地元では(コジカタと読む)」であるが、コチは窪みや谷間。方は場所なので、谷間の上の意味で、かっては北上川が城のそばに流れていたのである。
 つまり「平潟」は崖の上の意味であった。

 2.伊豆と江戸
 アイヌ語は五母音制ではあるが、イ音とエ音は似ているので混用がある。
 日本語の場合でも、「おまいさん、学校のかいりかい」で通じる。
 茨城では常磐線の終点はウイノで、「学校イ行く」などと板書する先生もいた。
 (関西弁だが、イーヨをエーヨという。)
 オ音とウ音にも混用がある。
 金(クガネ)−コガネ、あかときーアカツキ

 アイヌ語ではetuは鼻、岬。
 ここに上記の混用を入れると四つの組み合わせができる。
 etu、itu eto ito

 和歌山県には江津良浜があるが、茨城県北の五浦(イヅラ)とよく似た岬である。
 伊豆も五浦の仲間である。

 エトでは、霞ケ浦西岸に江戸崎がある。江戸も江戸城のある土地はかって海に面していた。
 江戸崎の近くに古渡フットがある。千葉県に富津フッツがあるが、どちらもputで川・沼などの口。古渡は川が霞ケ浦に入るところで、富津は海へ入るところ。
 ★海風注:大分前だが、古渡を何度か通ったことがある。最初の時、つくば市長だった人が「自分の住んでいる、つくば市古来(フルク)は、このあたりで一番古い移住者がいたから付いた名前で、霞ケ浦の方にも似た漢字の場所がある」と、何かに書いていたのを思い出した。しかし、交通信号のところに、futtoとあったので驚いた。フルワタリかコワタリかと思ったのが、すぐに意外な読みだと分かったので。 

 イトでは魏志倭人伝に伊都国がある。糸島半島になっている。

 以上のように、アイヌ人のいなかった茨城県にアイヌ語で意味の分かる地名があるのは、そこに縄文人がいたからである。実際、平潟や五浦の近くに松ケ崎貝塚や唐帰山遺跡など縄文遺跡がある。つまり縄文地名なのである。

 島根半島の日本海側はリアス式の複雑な海岸であることから、アイヌ語のetu(岬)とmoi(湾)があわさったetu-moi(エツモイ)、で出雲となった。
 新潟県の出雲埼には岬がないのだが、大国主の時代から出雲との交流があり、出雲人が集団で住んでいたとのことである。

 3.鮭は多くの言葉を生んだ
 高萩市に竜子山がある。
 若栗(ワッカは水、クルは神で水神の意味 )に源をもち竜子(タッコ、たんこぶの形で達子などを含め東北に多い地名)山をめぐって流れる関根川に沿って、たくさんの縄文遺跡がある。
 関根川には今でも鮭が遡上するとのことで、縄文時代に大量の遡上があったのではないか。
 アイヌ語のナイ(川)はネに変化するので、関ナイは鮭川でないかと思われる。

 アイヌ語で鮭はシペ(si ipe)で、真の、大きなー食べ物、魚である。
 si ipe はsi ke に変化するので、東蝦夷日記(松浦武四郎)に「秋味は鮭の方言、蝦夷語はシケ」というとあるのに当てはまる。シケからサケ、シャケに変化したのである。
 (海風注:鮭は秋に遡上するので秋味というとのこと。)
 さらにsi keのi とeは相互に変換して、se ki に変わり関になったと考えられる。
 また、si ipeはシチェに、そこからスケ、シチ、サチ(幸)、シャチに変化する。
 またそこから、シビへ変化し、寺の屋根に乗せる鴟尾となる。天守閣にはシャチホコ。
 ★海風:だったら、シビやシャチホコは豊漁・豊作の祈りなのか? 仏教に豊漁とは意外だが、現世利益も必要なのだ。天守閣は、天下人や領主としての責任なのか?

 日立市に滑川地区があり、和泉という地名もある。
 アイヌ語にはnam(冷たく)、 mem(泉地)がある。
 そして難読地名で有名は「行方」だが、これでナメカタと読ませるのである。
 カタは平潟と同じ、「の上」なので泉の上の意味になる。
 常陸風土記には倭武天皇(ヤマトタケルに比定される)が泉で手を洗ったことに由来するという地名説話があるが、実際に行方台地には多くの泉があって泉の上というのがふさわしい。ナメに「行」を当てたのは、ナラビ、ナラベの意味があるからだろうとのこと。

 高萩市の竜子山は少し平べったいが、独立した円丘上の地形である。
 アイヌ語でtapkopは独立した円山、または尾根の先のたんこぶのように高まったところの意味。最初pがtになり、次のpが消えてtatko辰子、立子などになり、二つとも消えるとtakoタコである。タコからたこ入道、タンコブ山の狸さんや月見だんご、コブ取り爺さんが生まれたのである。野菜のカブも同じ系列。
 ★海風注:富士塚は各地にあるが埼玉県志木市のものは田子山と呼ばれている。ということは、富士山も尖っているのだがタンコブなのか?
 むろん、奈良の三輪山はタンコブそのもの。古墳も円墳はタンコブで、前方後円も主体は後円の方で、前方は祈りの場だとのことだし。
 それに秋田県には深くて透明度の高い田沢湖がある。そのほとりの神社のそばに竜子姫の像がある。むろんタンコブ状の山もある。で、タンコブの女神が龍なのだろうか?
 富士山の女神は木の花の咲くや姫とのことだが。

 4.フンドシ談議
 日本書紀に「多禰」タネとある種子島はアイヌ語でtanne、意味は「長し」で地形に適合する。「掖玖」ヤクとある屋久島はアイヌ語でyuk鹿を意味し屋久鹿のいる島である。
 フンドシを奄美大島ではタンナとかタナと言うのだが、tanneからの母音の変化であろう。
 なお、秋田や山形でハンコタンナは農作業の女性が額に巻くものだが、そちらでは子供を背負う帯や腰帯の意味がある。したがって、腰帯の半分の長さのものであろう。
 で、そのタンナやタナからタナバタや天の川になったと思われる。
 一方、タンナやタナは六尺フンドシを言うとのこと。
 ★海風注:だったら反物も長いものの意味。長さの単位の反(一人分の着物に必要な長さとのこと)もここから生まれたに違いない。田んぼの面積の反は? 分からない。

 アイヌ語で天の川は、petペッ(川) nokaノか(形)なので、縄文語ではタナ ペッ(タナバタ)になったのでないか。その棚機川のほとりで機を織っている女が織姫なのである。

 アイヌ語でワッカは水。津軽・秋田北部方言でも水の意味。 
 小舟にたまった水を汲みだす用具 アカ汲み
 仏教用語の閼伽は仏に備えるもので水一般ではない(アイヌ語ではない)。・・・しかし拝礼の前の手洗い用の水に閼伽とあるのだが。
 アクアラインのアクアも水だが、これはラテン語からのもの。
 ★海風:しかしサンスクリットのアカ・ワカが仏教用語になり、ラテン語のアクアとなったとの説もある(インド・ヨーロッパ語族なので)。

 5.サタ岬
 大隅半島の先の佐多岬
 四国西端の佐多岬
 足摺岬も古くはサタ岬と呼ばれていた。
 アイヌ語でsa(前に)ta(ある)の意味で、細く海に突き出ている地形に適合している。

 さらに、古事記の猨田毘古神のサルダは琉球語のサダルが転じた語で、先導の意味だとのこと。サダならアイヌ語の「前に・ある」とも共通している。
 それともアイヌ語のsar(葦原)ta(にイル)で、葦原の中つ国の代表者となる。
 ★海風:
 先導説なら、アマテラスに授けられた名前だし、葦原説なら地元で信仰されていた神の名にふさわしい。大国主の別名に、葦原色許男・葦原醜男がある。猨田毘古神の連想からか、逆なのか。何か関係があるのだろう。

 ★海風:まとめ
 北海道の地名はアイヌ語に漢字をあてたので、月寒(ツキサップ)とか全部当て字だが、それが今ではツキサムと読むことになったとか。
 本書は本州の地名も縄文語で付けられていたので、弥生人が移住してきて地名に漢字が当てられたので(天武天皇の時に整理したようだが)、結局当て字である。だから、新井白石は漢字で元々の大和言葉の意味を解するなと注意したとのこと。
 昔同僚だった人が、岡山県美作出身だったので、ミマサカって難しい読みだねと言ったら、いや、ミサクだと答えたので驚いたことがある。早くもツキサム化していたらしいのだ。もっとも本来は三つの漢字を使っていたのを、天武天皇の勅令で二語になったのでますます読めなくなったに違いない。

 アイヌ語をもとにして、縄文語を再現してもらえればありがたい。

2 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年08月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031