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2019年07月23日09:33

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キリスト教228〜キリスト教と人工妊娠中絶

●キリスト教と人工妊娠中絶

 キリスト教は、人工妊娠中絶を殺人に等しいものと考える。神から与えられた生命、与えるべき生命を意図的に断つことは、神の意思に反する行為とされる。中絶を禁じる理由は、聖書に神の言葉として「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1章28節)とあり、また十戒の一つに「殺してはならない。」とあることによる。ローマ・カトリック教会は避妊も原則として禁じているが、これも同様の考え方による。
 中絶については、教父時代に書かれたバルナバ書にこれを禁ずる記述がある。同書は1世紀後半から2世紀後半の間に書かれたと見られる旧約聖書解釈にかかわる神学上の論文である,文中に、モーセが食べ物について禁じた『レビ記』11章の解説において、モーセが堕胎を禁じていると述べている。また、光の道について述べた部分でも、「堕胎によって子供を殺してはいけない」と書いている。
 ただし、カトリック教会では、19世紀半ばまで中絶が殺人であることは教義にはなっていなかったと見られる。カトリック教会が堕胎を禁じるのは、1854年以降、教皇ピウス9世による。
 教皇ヨハネ・パウロ2世は、神の永遠の律法は「殺してはならない」と命じていることを根拠に、中絶を否定している。1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)で、中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。
 このようなカトリックの教義に基づけば、人工妊娠中絶は禁止されなければならない。この教義は、個人の自由と権利を確保・拡大しようとする思想とは対立する。特に女性の産む産まないを決める権利の主張と衝突する。
 現代アメリカ社会では、人工妊娠中絶を認めるか否かが、大きな社会的な問題となっている。連邦最高裁判所は、1973年の判決で中絶を女性の権利として認めた。ところが、それを機に、キリスト教の教義に基づいて中絶を罪だとする人々と、女性の自己決定権を主張する人々の対立が激化している。
 1993年にフロリダ州で中絶医が中絶反対派によって殺害されるという事件が起こった。それ以来、たびたび同種の殺人事件が発生している。2009年には、カンザス州ウィチタで中絶専門のジョージ・ティラー医師が射殺された。犯人のスコット・ローダーは、中絶反対運動の参加者で、中絶医こそ「殺人者だ」と糾弾し、「何者かが教室で子供たちを射殺すれば、警備員は力ずくでそいつを止めるだろう」と語った。ティラー医師は、以前にもクリニックの入り口に爆弾を仕掛けられたり、中絶反対派の女性に襲撃され両腕を負傷したことがあった。この事件の後、同じ年にミシガン州オワッソゥでは、高校の前で妊娠中絶に反対する活動を行っていた男性が、走行中の車から数回射たれ、死亡するという事件が起こった。こうした過激な事件が起こる状況を、アメリカでは「中絶戦争」と呼んでいる。アメリカでは妊娠中絶を認めるかどうかが政治的な問題となり、大統領選挙・連邦議会選挙での争点の一つとなっている。
 米国の政治学者マイケル・サンデルは、この問題について、次のように言う。「胎児の道徳的地位に関してカトリック教会が正しいとすれば、つまり中絶が道徳的には殺人に等しいとすれば、寛容や女性の平等という政治的価値観がいかに重要であろうと、それが優位に立つ理由は明確ではない」「中絶するかどうかを決める女性の権利を尊重する議論は、発達の比較的早い段階で胎児を中絶することと、子どもを殺すことの間に妥当な道徳的違いがあると示せるかどうかに左右される」と。

 次回に続く。

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