mixiユーザー(id:525191)

2019年04月12日12:31

337 view

キリスト教185〜豊臣秀吉によるキリスト教の禁圧

●豊臣秀吉によるキリスト教の禁圧

 わが国は、伝統的に固有の宗教である神道と、インド・シナ・朝鮮を経て伝来し土着化した仏教が、国民の多くの信じるところである。また、これらの宗教には、儒教・道教の思想が一部集合して、国民生活の中に深く浸透している。そうした国に上陸したカトリックの宣教師たちは、アジア諸国での布教の経験をもとにして、日本人を改宗させていった。日本における宣教は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、及び日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることを方針とした。この適応主義を以て宣教が進められた。
 宣教師たちは、その土地の大名などの有力武将に会い、南蛮貿易の利益と引き換えに布教の許可を得た。大名の中には、キリスト教に帰依する者が出た。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷らがキリシタン大名として知られる。1582年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの企画で、大村純忠らが天正遣欧使節団を派遣した。使節団は、ローマに赴いて教皇グレゴリウス13世に拝謁し、またヨーロッパ各地で歓迎を受けた。
 織田信長は西洋の新知識を伝え、異国の文物をもたらす宣教師を歓迎した。信長の後を継いだ豊臣秀吉も当初は、宣教師に対して寛大だった。だが、秀吉は九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知った。また、ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売られていることに激怒した。1587年(天正15年)伴天連 (ばてれん) 追放令を発した。同令で秀吉は、「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだもって然るべからず候事」と発した。秀吉は、ここでキリスト教国に対抗して神国を打ち出した。これは、日本文明が神道を宗教的中核とする文明であることを自覚したものと言える。
 秀吉が激怒した奴隷売買は、キリスト教の宣教師が行っていた。ザビエル渡来後に来た宣教師の一人に、ルイス・デ・アルメイダは、ザビエルと同じく改宗ユダヤ人で、ポルトガルを出て各地の仲介貿易で巨額の富を築き上げていた。日本に来ると、イエズス会の神父となり、キリスト教の布教をした。そのアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいていた。徳富蘇峰は、『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録を載せた。「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」と書いている。キリシタン大名が送ったローマ教皇のもとに派遣した天正少年使節団は、次のように報告している。「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない」と。火薬1樽で50人の娘が売られたと伝えられる。
 豊臣秀吉は宣教師の活動の危険性をいち早く見抜き、主君の織田信長に注意を促した。秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天連はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じた。
 秀吉の伴天連追放令には、こうした事情があった。とはいえ、秀吉は当時南蛮貿易の利益を求めており、またキリシタンの大名や信者の多い九州で反乱が起こることを懸念した。そこで、徹底した追放は行わず、宣教活動を半ば黙認していた。禁教となった後も、1593年にフィリピン経由で初めてフランシスコ会士が来日し、宣教師の一人ソテロは仙台へ行き、伊達政宗に迎えられるなどした。
 秀吉が本格的にキリスト教の禁圧を行ったのは、1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけとする。スペイン船サン・フェリペ号が土佐国浦戸に漂着し、秀吉は船荷などを没収した。これに抗議する航海長の発言やポルトガル人の讒言を通じて、秀吉はスペインが日本征服を計画していると見抜いた。そして、キリスト教への本格的な弾圧を開始したのである。
 徳川時代には、幕府はキリスト教を禁教として鎖国政策を採った。

 次回に続く。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する