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2019年02月07日09:45

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キリスト教157〜ピョートル1世による統制と西欧化政策

●ピョートル1世による統制と西欧化政策

 ピョートル1世は、ピョートル大帝とも呼ばれる。1682年から1725年の間、皇帝の座にあった。大帝は、西欧的な改革を行って絶対主義的な政治・経済体制を強化した。自らイギリス、オランダに留学して西欧の技術を身に着けた。また西欧から多くの学者を招聘して、西欧化を進め、富国強兵に努めた。大帝は、1703年、ロシアの都をモスクワからペテルスブルグに移した。ロシアはこの時以来、東洋のロシアから西洋のロシアに変わり、西欧諸国に伍する存在となっていった。やがてロシアは一大帝国となり、シベリアを支配し、アジアにも進出した。
 ピョートル1世が始めた国家による教会への介入と統制は、ロシア正教会の歴史上、先例のないほど厳しいものとなった。大帝は、修道院省を設置して教会領を管理し、多くの修道院領を国庫に没収した。司祭には、痛悔の内容に反国家的な言動があった場合、政府に報告するよう義務付けた。1700年にモスクワ総主教アドリアンが死去すると、後任を置くことを禁じた。21年には、それまで帝権と同等の権限を持つと見られていた総主教座を廃止した。大帝は、西欧化政策を教会にも及ぼし、英国国教会や北欧のプロテスタント諸国の国教制度にならった統制制度を導入した。総主教制に替えてシノド (聖務会院) を設け、シノドが教会と修道院を管理することにした。皇帝はシノドのメンバーを決め、またいつでもメンバーを外すことができた。総裁には俗人が任命された。これによって帝権の優位を確立し、教会への国家の統制を強化した。以後、ロシア正教会は、ロシア皇帝の政治的道具となった。総主教の空位は、革命の起こる1917年まで続いた。
 また、大帝は、西方キリスト教圏で教育を受けた者ばかりを秘書役にし、好んでウクライナ人を登用した。それによって、カトリック教会の影響が強まった。祈祷書にカトリックの思想を反映する句が注入され、伝統的なイコンが否定され、聖歌が西欧化され、教義にも正教会の教えとは異なる思想や言葉が摂取された。弾圧を受けた古儀式派は、多数、集団焼身自殺した。
 こうしたピョートル1世による教会への統制と西欧化政策は、彼の死後も続けられた。

●エカチェリーナ2世も統制・西欧化を継続

 ピョートル3世は、古儀式派に対する施策を緩和した。その妻は、クーデタを起こして夫を殺害し、1762年から96年にかけて女帝エカチェリーナ2世として権勢を誇った。エカチェリーナ2世は、夫が行った緩和策を踏襲し、古儀式派への2倍の人頭税を廃止し、国民としての諸々の権利を与え、痛悔の自由も認めた。彼女は、ドイツ出身だったが、プロテスタントからロシア正教に改宗した。ロシア正教会は、彼女のクーデタと即位を支持した。しかし、彼女は、ピョートル1世以来の政策を継承し、教会への統制と西欧化政策を推進した。修道院の生活を圧迫し、修道院領の没収を行った。そのため、正教会は精神的に荒廃したといわれる。
 18世紀のロシアでは、国家も教会も西欧化の道を進んでいた。その中で、この流れに抗して正教の信仰を堅持する者たちもいた。ピョートル1世やエカチェリーナ2世により土地を没収された多くの修道士たちは非所有派となって、ロシアの大自然に移り住み、隠遁修行を行った。その修道士の中から、聖人とされるザドンスクのティーホンやサロフのセラフィムなどが現れた。
 ロシア正教会では、19世紀に入ると修道院を拠点として、『フィロカリア(美への愛)』の紹介を中心とする静寂主義が広まった。『フィロカリア』は、1792年、アトス山の修道士ニコディモス・ハギオリチスとコリント主教マカリオスが編纂し、ギリシアで発行された書物である。静寂主義に基づく神への賛美集であるとともに、14〜15世紀の東方正教会の神学的著作を抜粋したものである。西方キリスト教のスコラ神学の書のような学理的なものではなく、体験に基づく実践の書であり、祈祷と修行に用いられた。各国語に翻訳され、東方正教圏の全体に広まり、信仰の再興をもたらした。特にロシアでは、本書によって、信仰生活が復興したといわれる。
 ロシア正教会は内部に様々な矛盾や対立を抱えながらも、強大な帝権の保護を受け、ロシア帝国の領土の拡大とともに宣教の範囲を拡大した。特に東方伝道を活発に行い、18世紀初めには、シベリアを横断してカムチャッカ半島に至り、次いでシナの北京に入り、18世紀末には北米大陸のアラスカに到達した。幕末の日本が米国ペリー提督の黒船来航により、1854年に開国すると、ロシアは55年に日露和親条約を結んだ。ニコライ・カサートキン司祭が函館のロシア領事館付司祭として来日し、日本ハリストス正教会を開設した。19世紀のロシア正教会の伝道者は、在外ロシア人のための教会ではなく、現地人のための教会を建てることを目指した。現地語による祈祷書・聖書の翻訳が活発に行われ、受容と定着を容易にした。

 次回に続く。

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