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2019年02月05日09:33

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キリスト教156〜ロシア正教会は東方正教会最大の勢力に

●ロシア正教会は東方正教会最大の勢力に

 次に、世界的なキリスト教史の近代におけるロシアとロシア正教会について書く。
 1453年に東ローマ帝国が滅亡し、キリスト教文明の一つがイスラーム文明圏に包摂された。ロシアとロシア正教会の近代は、その時から始まる。1472年、リューリク朝のイヴァン3世が、ビザンティン最後の皇帝の姪を妃にした。それによって、ロシアは事実上、東ローマ帝国の後継者となった。モスクワの大公は、初めて皇帝(ツァーリ)の称号を名乗り、東ローマ帝国の双頭の鷲の紋章をモスクワ大公の紋章に加えた。また、モスクワはコンスタンティノポリスに継ぐ「第3のローマ」だという意識が広がった。東ローマ帝国滅亡後の東方正教会圏で、ロシアは唯一の独立国となった。「第3のローマ」とは、そのロシアが正教の守護者としての自負を示す呼称である。以後、ロシアの正教会は、東方正教会の中で独自の道を歩んだ。国教としての地位は、帝政が崩壊する1917年まで続いた。
 ロシア正教会では、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて、所有派と非所有派の論争が起った。14世紀の荒野修道運動から出発した修道院は、開墾によって広げた土地から富を得ていた。その富を積極的に使って民衆を助けるべきだと説いたのが、所有派である。所有派は財力を活かし、奉神礼を荘厳にし、西欧の進んだ技術を導入し、学校教育・社会福祉に力を入れた。これに対し、非所有派は、清貧を旨として財産所有に反対し、隠遁者を多数生み出した。非所有派は祈りと修道を通して、人々の精神生活の向上に努めた。それぞれの派が尊敬を受ける修道士・聖人を生み出していた。しかし、ロシア正教会は、所有派を優先するようになったため、次第にその弊害が現れるようになった。
 1533年、モスクワ大公イヴァン4世がロシアを統一した。大公は、イヴァン雷帝とも呼ばれる。紙と印刷機の導入、常備軍の創設などの近代化を進め、彼の統治期以後、ロシアは中央集権国家として成長していった。
 イヴァン4世は、はじめ信仰の篤い君主として知られ、モスクワに聖ワシリイ大聖堂を建立した。ところが、治世の後半には恐怖政治を行った。所有派の流れを汲むモスクワ府主教フィリップ2世は、皇帝に対し痛悔(告解)を迫ったが、皇帝の側近によって殺害された。次の皇帝フョードル1世は、信仰熱心で祈りに熱心なことで知られた。彼の統治期の1589年にモスクワの府主教イオフは、オスマン帝国の支配下にあったコンスタンティノポリスの総主教から総主教の称号を与えられた。これによって、ロシア正教会は、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの正教会とともに、一個の独立した正教会と認められ、また名実ともに東方正教圏最大の勢力となった。
 16世紀の西欧では、ルターらによる宗教改革が行われていた。これに対し、カトリック教会では、対抗宗教改革が進められた。その影響がロシアにも及んできた。当時、キエフを含むウクライナ西岸は、カトリックを国教とするポーランド・リトアニア共和国の勢力下にあった。カトリック教会は、ウクライナの教会をローマ教皇の下に帰属させようとし、1596年ブレスト合同により、ウクライナ東方カトリック教会が成立した。この教会は、東方典礼を保ちつつ教皇首位権を認める東方典礼カトリック教会のうち最大級のものとなった。ロシア帝国が近代化=西欧化を進める中で、ロシア正教は、西洋文化が浸透するウクライナを通じて、西方キリスト教の影響を受けることになっていく。
 ロシアの王朝は、フョードル1世でリューリク朝が最後を迎え、1613年にロマノフ朝に代わった。ロマノフ朝時代のロシア正教会は、国家(政府)によって保護され、ロシア帝国内で特権的な立場を得ていた。しかし、近代的な国家発展を目指す皇帝の下で正教の西欧化が進められ、それが教会が荒廃する原因もなった。

●ニーコンの改革とそれによる混乱

 17世紀半ば、ロシア正教の歴史上、重大な事件が起こった。総主教ニーコンによる改革とそれを巡る紛争である。
 1652年に皇帝アレクセイの支持を受けたニーコンが総主教座に就き、ロシア正教会の改革を始めた。ニーコンは、正教の西欧化に危機感を抱き、正教会の伝統を守ろうとした。その改革は、(1)ロシア正教会で指導的立場にある所有派による形式主義への偏重を是正すること。(2)ギリシャ正教の奉神礼・伝統・祈祷書等を取り入れてロシア正教に東方正教会の中心としての普遍性を確立すること。(3)これらを以てカトリック教会に対抗することーーなどを目指すものだった。ニーコンの改革によって、ロシア正教会とそれ以外の正教会との儀礼・慣習等の差異は縮まった。また、現代に至るまでロシア正教会が保持する奉神礼の骨格が出来上がった。
 二―コンの改革は、ロシア正教会を革新しようとしたのではなく、他教会と共通する正教会の伝統を確立しようとしたものと見られる。だが、その改革は性急であり、また強引だった。そのため、先祖伝来の祈祷様式を守ろうとする人々から猛烈な反発を受けた。反対派の中から古儀式派と呼ばれる大規模な分派が生まれた。古儀式派は、改革派からは分離派(ラスコーリニキ)という蔑称で呼ばれた。1666〜67年にロシア全国公会が開かれ、破門された。一方、ニーコン総主教も、皇帝から全国的に生じた混乱の責任を追及されて、追放された。
 この大きな事件によって、ロシア正教会はいちじるしく弱まり、17世紀末からピョートル1世が行った教会への統制と西欧化政策に抗すことができなかった。

 次回に続く。

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