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2018年12月22日08:50

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キリスト教135〜ドイツ敬虔主義の登場

●ドイツ敬虔主義の登場
 
 次に、世界的なキリスト教の歴史という観点から、ドイツの近代史を書く。
 ルターによる宗教改革は、ドイツ30年戦争が終結したときには、開始から100年を迎えていた。この間、改革の精神は段々形骸化し、17世紀後半には、信徒の信仰活動は、教理の解釈や説教に耳を傾けるばかりの受動的なものになっていた。
 ルター派の牧師フィリップ・ヤーコブ・シュペーナーは、このような風潮を批判し、硬直化した教会を内部から改革しようとした。ルター派の堅信礼を確立するともに、一般の信者の積極的役割と、禁欲的な生活を説いた。また、互いに信仰を深め合うために信者が定期的な集会を開くことを提唱した。集会では、祈りを捧げ、聖書を読むなどした。
 シュペーナーは、敬虔主義(ピエティズム)の始祖とされる。敬虔主義とは、信仰の本質は特定の教理を遵守することではなく、個人の敬虔な内面的心情にあると考える立場を言う。敬虔主義では、聖書の文言の解釈よりも、生きた宗教体験を重視する。そのような思想・運動を土壌として、やがてカントの批判哲学や自由主義神学が登場することになる。一方、ルター派において、旧来の伝統を保持する立場を正統主義という。

●啓蒙の完成者・カントと道徳的宗教への試み

 この間、17世紀中後半にイギリスで市民革命が起り、18世紀後半にはアメリカ独立革命、フランス市民革命が起こり、主権独立国家が発展した。だが、ドイツは小国群立のため、後進地域となった。自由主義、デモクラシーは発達せず、資本主義の発達も遅れていた。
 そうした状態のドイツに英仏で発達した啓蒙主義が伝わった。啓蒙主義の時代におけるキリスト教の問題は、理性と信仰の対立だった。ドイツでは、トマジウス、ヴォルフ、レッシング等が主に哲学・文学の方面で啓蒙主義を展開した。
 啓蒙主義の頂点に立つのが、イマヌエル・カントである。
 カントは、「啓蒙の完成者」といわれる。カントは、純粋理性と実践理性を区別して、神は純粋理性によって認識することはできず、実践理性の「要請」であると主張した。これによって科学的認識を根拠づけるとともに、信仰の領域を確保した。また、カントはアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代として生き、当時の政治思想・社会思想を哲学的に掘り下げた。現代の人権の思想には、ロックと並んでカントが重要な影響を与えている。
 若き日のカントは自然の科学的研究に優れた業績を現した。数学・自然科学の論文を多く書き、特に宇宙の発生に関する星雲説は、ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用したもので、カント=ラプラス仮説として名高い。カントは、数学・自然科学だけでなく、論理学・形而上学・自然地理学等、広い範囲にわたる科目を大学で講じていた。しかし、イギリス経験論の哲学者デイビッド・ヒュームによって「独断論のまどろみ」を破られた。
 ヒュームは、感覚的な印象によってものの観念ができ、観念の連想によって、高級な観念や知識ができるとした。自然科学が基礎に置く因果律も、連想の繰り返しという経験に基づく習慣に過ぎない。自然科学は理論的な学として成り立つか疑わしい。ましてや感覚的に経験することができない神や神の創造を問題にする形而上学は、学として成り立つことはできない、と考えた。カントは、ヒュームの懐疑論に衝撃を受け、それまで影響を受けていたライプニッツ、ヴォルフ等の思弁的形而上学を見直した。そして、人間の認識能力について根本的な検討を行うことにした。
 またカントは、ルソーの著書から人間を尊敬すべきことを学んだ。「私は無知の民衆を軽蔑していた。しかし、ルソーが私の誤りを正してくれた。目のくらんだ優越感は消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ」とカントは書いている。そして「人間を尊敬するというこの考え方こそ、すべての他の人に一つの価値を与えることができ、その価値からこそ、人間らしい諸権利は由来する」と信じ、自然の研究から人間の研究に向かった。
 こうした時、カントが強い関心を示したのが、視霊者エマヌエル・スヴェーデンボリである。スヴェーデンボリは、数学者、科学者として著名であるとともに、霊魂との意思交通、遠隔視を行うことで、当時西欧で評判だった。カントは、スヴェーデンボリを研究し、1766年刊行の『視霊者の夢』に自らの見解を書いた。この書でカントは、霊魂との意思交通や共同体的なつながり、来世の存在を信じる考えを書く一方、スウェーデンボリの語ることを幻想であると否認する見方も書くという二面的な態度を見せる。そして霊界を語る視霊者と独断的な形而上学者はともに夢想を述べているとし、自らは、経験に基づく立場から人間理性の限界を定める新しい形而上学へと向かう。
 そして、カントは、1781年の『純粋理性批判』で経験に基づく範囲で理性による科学的認識を基礎づけるとともに、88年の『実践理性批判』等で科学の理論的認識の対象とはならない道徳の実践を説き、科学と道徳・宗教の両立を図った。その哲学は、批判哲学または批判的観念論と呼ばれる。
 カントは、批判哲学の嚆矢となる『純粋理性批判』に、三つの問いを挙げた。(1)人間は何を知り得るか、(2)人間は何を為すべきか、(3)人間は何を望んでよいか、の三つである。三大批判書をはじめとするカントの主要著作は、これらの問いへの彼の解答である。
 第1の問い、人間は何を知り得るかについて、カントは形而上学を検討した。カントは、第一の批判書『純粋理性批判』で、理性による理論的な認識について検討した。カントは、人間の認識能力を感性・悟性・理性に分け、その検討を行った。現象は主観が経験に与えられた感覚内容を総合構成したものであり、物自体は感覚の源泉として想定はできるが、認識はし得ないとした。物自体は、物そのものというより、物事の真相というのに近い。こうして、カントは現象界・感性界と物自体の可想界または叡智界を厳格に区別した。ヒュームが成立を疑った自然科学及び数学については、感性のア・プリオリな直観形式としての空間・時間と悟性のア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーの協同によって確実な学的認識たり得ているとして、学としての基礎づけをした。
 カントは知性に含まれていたより高次の能力を検討の対象から除いた。中世的な知性は直観的な能力だったが、カントは、人間の悟性・理性には直観を認めず、知的直観は神の知性に特有のものとした。そして知的直観の有無に、神と人間、絶対者と有限者の区別を置いた。
 第2の問い、人間は何を為すべきかについて、カントは道徳を検討した。理性には理論的な機能とは別に、実践的な機能があるとして、第二の批判書『実践理性批判』において、道徳法則の客観的な確実性を論じ、『人倫の形而上学』で道徳哲学の体系を示した。カントは、人間は、自分の行為の個人的・主観的な規則である格率を、普遍的な道徳法則と一致するように行為すべきものとした。無条件に「△△せよ」と命じる定言命法に従って実践すべきことを説いた。道徳の最高原則は、「同時に普遍的法則としても妥当しうるような格率に従って行為せよ」である。神の存在、霊魂の不滅、人格の自由については、理論理性は決定不可能である。だが、これらは人間の道徳的な行為が意味あるものとなるために不可欠であり、実践理性はこれらを要請するとした。
 第3の問い、人間は何を望んでよいかについて、カントは宗教を検討した。カントは、第三の批判書『判断力批判』で、悟性と理性を媒介する判断力について検討した。カントは啓示宗教としてのキリスト教から、啓示の部分を除き、道徳的宗教へと純化、改善することを試みた。人間は本能や衝動で行動する動物的な感性的存在者であるが、自由で自律的な理性的存在者でもある。人間は、欲望の誘惑に負けやすいが、理性は人間を超感性的な世界へと向かわせる。人間は理性の声に従って道徳を実践する者として、神・不死を望んでよいとした。
 こうして、カントは道徳哲学を構築するとともに、キリスト教を啓示宗教から道徳的な宗教へと純化、改善することを試みた。この試みは、以後、ヨーロッパを中心に哲学だけでなく、キリスト教の神学にも強い影響を与え続けている。

 次回に続く。

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