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2018年10月31日09:36

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キリスト教113〜第1次世界大戦とキリスト教

●第1次世界大戦とキリスト教
  
 1800年の時点では、欧米諸国は地球の陸地の35%を支配したに過ぎなかったが、1914年になると実に84%がその支配下に入っていた。19世紀末から20世紀初めにかけての列強の勢力争いは、先進国のイギリスと後進国のドイツの対立を中心とするものだった。諸国の植民地争奪戦が世界各地で展開され、世界大戦へとエスカレートしていった。
 ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。ロシアとは、独露再保障条約の更新を拒否したことにより、対立した。一方、イギリスは、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、07年の英露協商によって、英仏露の三国協商を結んだ。こうしたイギリス対ドイツの対立を主軸とし、これにロシアやフランス等が絡む形で植民地争奪戦が行われ、それが高じて未曾有の規模の戦争にいたるのである。
 1914年7月、第1次世界大戦が勃発した。各国はドイツ、オーストリア、オスマン、ブルガリアの中央同盟国(同盟国)と、三国協商に基づくイギリス、フランス、ロシアを中心とした連合国(協商国)に分かれて戦った。多くの人々は、戦争は「クリスマスまでには終わる」と楽観していた。ところが、欧州を主戦場とする戦争は、誰もの予想を裏切って長期化し、1918年11月まで、約4年4ヶ月もの間、繰り広げられた。ヨーロッパだけでなく、アジアを含む30カ国以上が参戦する最初の世界戦争となった。キリスト教国を中心とした争いが世界全体を巻き込んだのである。
 第1次世界大戦は、国民全体の協力体制を必要とする史上初の総力戦となり、女性や植民地の住民までもが動員された。社会主義者の多くも自国の戦争に賛同したので、各国で挙国一致体制が成立した。毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が開発され、戦い方が大きく変化した。莫大な人員と物量が戦場に投入されることにより、犠牲者の数は飛躍的に増大した。
 こう着状態が続くなか、世界最大の工業国アメリカがドイツとの戦いに参戦したことによって、戦局は連合国側の優勢へと大きく傾いた。そうしたなか、ロシアで、1917年11月レーニンが率いるボルシェヴィキがクーデタを起こし、世界初の共産主義革命が起こった。革命政権は翌18年3月単独でドイツと講和し、ロシアが戦線から離脱した。西部戦線で最後の攻勢に出たドイツは、戦局を打開できず、国内の政情は悪化した。4月、キール軍港で起きた水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起こり、ヴィルヘルム2世が退位し、休戦条約が結ばれた。こうして第1次世界大戦は終結した。
 第1次世界大戦は、参加国の多くが共倒れに近い状態になった戦いだった。イギリスは戦勝国だったが、巨額の戦費支出により債務国に転落した。その結果、近代世界システムの中核部では、覇権国家がイギリスからアメリカに移動した。
 この大戦によって、ヨーロッパは疲弊した。終戦の年、ドイツの歴史哲学者オズワルド・シュペングラーが『西洋の没落』を刊行した。その書名が象徴するように、西洋文明は衰亡の兆しを示した。なにより戦争の悲惨は、キリスト教的な価値観に揺らぎをもたらした。戦場の荒廃のなか、キリスト教徒にとっては、どこにも神は現れなかった。神への訴えに答えは返ってこなかった。深い失望と疑念が広がった。
 そうした精神的状況において、敗戦国のドイツを中心に、キリスト教とヨーロッパと人類の危機の時代を考察する哲学者や神学者が現れた。前者はハイデッガー、ヤスパース、後者はバルト、ブルトマン、ティリッヒなどである。彼らについては、ドイツの近代史を書く際に述べる。

 次回に続く。

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