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2018年10月27日08:29

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キリスト教111〜イギリスを先頭とするキリスト教諸国の帝国主義

●イギリスを先頭とするキリスト教諸国の帝国主義

 1870年代から第1次世界大戦に至る時期は、欧米列強が植民地獲得に狂奔し、数ヶ国で「世界の分割」を完成させた時期であり、それが帝国主義の時代である。イギリスは、この時代の先頭に立って、帝国主義を展開した。
 産業革命後のイギリスは、「世界の工場」として圧倒的な工業力・経済力を持つにいたり、自由主義の貿易政策の下で繁栄を誇った。とりわけ1837年から1901年に及ぶヴィクトリア女王の時代に、イギリスは絶頂期を迎えた。
 イギリスは、鉄道建設の先鞭を斬った。イギリスをはじめとして鉄道建設は、1840年代〜50年代にヨーロッパ各地や北米大陸に急速に広がり、国内市場の統一、国民国家の形成に大きな役割を果した。鉄道は植民地でも敷設され、原料と商品の大量輸送が行われた。
 鉄道建設が世界各地で進んだことが、重工業の急速な成長をもたらした。鉄道は、機関車、レール、鉄橋等、大量の鉄製品を必要とする。56年にベッセマーが転炉、64年シーメンズが平炉による製綱法を発明し、銑鉄より丈夫な鋼鉄が生産されるようになった。鋼鉄は、精巧な機械や兵器の製造を可能にした。鋼鉄は、科学革命と産業革命の合体を確固たるものとした。
 科学革命と産業革命の合体において画期的だったのが、1851年にロンドンで開かれた第1回万国博覧会である。第1回万博は、産業革命で工業生産と国際貿易に支配的地位を確立したイギリスが、その繁栄を誇示する一大イベントだった。会場は、鉄とガラスで初めて作られた巨大な建築物「水晶宮」だった。場内には、参観者を驚嘆させる当時最先端の工業製品が数々展示された。ロンドンを中心に発達した鉄道網を利用して、延べ600万人もの入場者が集まった。
 資本主義の発達によって、イギリスのネイションでは、労働者大衆の所得が増大し、生活水準が向上した。近代世界システムの中核部の最先進地域にあって、富を巨大に増殖したイギリスでは、資本主義の矛盾を是正しようとする政策が行われた。これは、市場にすべての決定を任せる自由主義を修正した修正自由主義や、キリスト教的な慈善運動に基づく社会改良主義の政策である。そうした政策によって、イギリスの労働者大衆の生活は豊かになり、政治的社会的な権利も拡大した。国民の権利としての人権が、ネイションを基盤に発達していったのである。
 1890年代には、新エネルギーとして電力が登場し、内燃機関が使用されるようになった。第2次産業革命である。技術体系の変化と産業の巨大化に伴って、新産業分野では膨大な設備投資が必要となった。巨額の資金を調達するため、銀行・証券会社などを通じて市場で投資を募る株式会社が普及した。各国に大企業・財閥が出現し、利潤を求めて競い合った。イギリスの資本は、巨大資産家の私的資本が中心だったため、技術革新ではアメリカ、ドイツに遅れをとった。
 そこでイギリスは、それまで蓄積した富と権益をもとに、金融大国として生き残る方法を取った。ロンドンのシティは世界の金融センターとして、この時代に支配的な地位を確立した。それとともに、イギリス資本は、安価な労働力と資源に恵まれた諸大陸の植民地に資本を輸出した。政府は資本家と協同し、対外投資による利益拡大へと政策を転換し、植民地の拡大を図る政策を推進した。それがイギリスの帝国主義政策である。
 帝国主義という言葉は、1870年代からイギリスで使われ始めた。帝国主義は古来、軍事的な膨張主義である。これに資本の利潤獲得という経済的理由が重なっているのが、資本主義的帝国主義の特徴である。イギリスの帝国主義的な対外政策は、インド、アフリカ、シナ等へと展開された。イギリスは、1600年東インド会社を設立してインド洋交易に参加し、以後、インドへの進出を続けたが、1857年にムガル帝国を滅亡させ、77年にはヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を創建した。その結果、インドを、実質的に植民地化した。このことは非常に重大な出来事だった。キリスト教的な近代西洋文明が、初めてアジアの非キリスト教的な文明のひとつを完全に支配下に置いたのである。
 イギリスのアフリカ・アジアへの進出の大きなきっかけとなったのは、スエズ運河の株式を取得したことだった。スエズ運河は1869年に開通した。これにより、ヨーロッパの船は、喜望峰を回らずに、地中海からインド洋、海洋アジアへと出られるようになった。世界交通史上の一大転機だった。運河の建設はフランス人レセップスが成功させたもので、管理はフランスとエジプトの共同出資による会社が行っていた。ところが、財政難に陥ったエジプトは、同社の株式を売却しようとした。この情報を得たイギリスのディズレーリ首相は、ロスチャイルドから巨額の資金を得て、一挙に同社株式の44%を取得し経営を支配した。さらに82年には、運河地帯を占領した。
 スエズ運河の支配は、イギリスの帝国主義政策を促進した。イギリスは、スエズ運河を通って、中東、インド、シナ等の植民地支配を大々的に展開するようになった。
 さらに、イギリスは、アフリカ大陸に進出した。イギリスに負けじと、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーなどもアフリカ分割に参加し、1880年代以降、アフリカの植民地化が一気に進んだ。キリスト教諸国が猛獣の群れのように、非キリスト教的な地域を寄ってたかって奪い合った。
 イギリスは、北アフリカのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を進めた。この線をさらにインドのカルカッタに伸ばそうとした。この政策を、三つの都市の頭文字を取って、3C政策という。
 一方、ドイツでは、ヴィルヘルム2世が3B政策を推進した。3B政策は、ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、バグダードという三つの都市の名に由来する。目的は、これら3都市を結ぶ鉄道を建設し、バルカン半島から小アジアを経てペルシャ湾に至る地域を経済的・軍事的にドイツの勢力圏にすることにあった。そのため、アフリカの南北からインドまでを押さえようというイギリスの3C政策と対立した。
 イギリスとドイツは、植民地の拡大を巡って対立関係に入った。ドイツは、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。一方、イギリスは、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、07年の英露協商によって、英仏露の三国協商を結んだ。
 こうして、19世紀末から20世紀の初頭における西欧の国際関係は、イギリス対ドイツの対立を主軸として進んでいく。英独にロシアやフランス等が絡む形で植民地争奪戦が行われた。こうしたキリスト教国同士の争いが高じて、世界大戦へと大規模化していった。

 次回に続く。
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