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2018年08月06日08:55

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キリスト教84〜宗教改革から宗教戦争・市民革命へ

●宗教改革から宗教戦争・市民革命へ

 西方キリスト教における宗教改革は、キリスト教徒同士の激しい戦争を引き起こした。また、宗教的な対立が政治権力を奪取する市民革命へと発展した。
 宗教改革が本格的に開始された場所は、神聖ローマ帝国だった。この事実は、重要である。教皇が戴冠する皇帝が統治する地域で、カトリック教会批判が起こったのである。帝国内の各地で、プロテスタンティズムに改宗する諸侯や都市が現れた。
1529年、シュパイアー帝国議会でルターを支持する5人の帝国諸侯と14の帝国都市が、皇帝カール5世の「異端根絶」の提案に激しく抗議つまりプロテストした。以来、諸侯と皇帝の戦いは、政治的抗争となった。
 教皇と皇帝は、諸侯の要求を入れざるをえなくなり、1555年にアウグスブルグの宗教和議が調印された。和議のスローガンは、「領主の宗教は領民の宗教!」だった。ルター派の主張が全面的に認められ、新教徒と旧教徒は同権であり、互いに相手の立場を尊重することが合意された。各領邦の宗教は、君主が選択することとなった。今日にいう人権には、重要な要素として信教の自由があるが、信教の自由は、まずこうした限定的な形で獲得されることになった。このとき、プロテスタント諸侯は、領地にあるカトリック教会をプロテスタント教会にし、莫大な財産を自分のものにした。和議にいう宗教はカトリックとルター派に限定された。カルヴァン派は異端のままだった。
 1618年、ドイツ30年戦争が勃発した。きっかけは皇帝フェルディナント2世がカトリック教会と結んで、皇帝権の再建を図り、絶対主義体制を構築しようとしたことである。これに対し、皇帝独裁を許すな、と諸侯が反発した。戦いは、皇帝の家系でカトリック擁護のハプスブルグ家と、プロテスタント支持の諸侯の対立で始まった。この帝国の内戦に、周辺の新教国・旧教国が参戦し、皇帝・教会・諸侯・諸王が入り乱れて争う大戦争となった。
 戦争の展開過程は、ボヘミア戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、フランス戦争と呼ばれる。戦争は拡大また長期化し、ドイツを主たる戦場とするヨーロッパ大陸戦争となった。最終段階では、フランスが介入し、ハプスブルグ家対ブルボン家という宿敵同士が激突した。しかし決着はつかず、泥沼の戦いが続いた。
 ドイツ30年戦争では、キリスト教徒同士が際限のない戦争を続けた。ドイツの人口は、3分の1に減ったと言われる。この戦争で、神聖ローマ帝国の皇帝やドイツの諸侯は莫大な戦費を必要とした。ユダヤ商人はその需要に応じることができた。ユダヤ人から資金の提供を受けなければ、戦争はできなかった。資金と引き換えに居住許可が乱発された。30年戦争は、ユダヤ人の国家財政と軍事物資の供給への大々的な関与の始まりとなった。キリスト教徒同士の戦争にユダヤ人が助力したのである。また、キリスト教徒はユダヤ人の助けを借りて、他のキリスト教徒と戦ったのである。
 ドイツやスイスで始まった宗教改革は、宗教改革の先駆者ウィクリフの国、イギリスに逆波及し、ここで市民革命を引き起こすことになった。
 イングランドでは、1534年にヘンリー8世が離婚問題を機に、国王至上法を制定し、自らをイギリス教会の首長とし、その至上権を認めてローマ教皇から独立した。離婚を認めないカトリック教会から分かれて、国内の教会をイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)とした。これは、国王の個人的な事情による独立であり、宗教指導者による改革が行われたわけではなく、以後、イングランドでは、国王の交代の度にプロテスタントとカトリックの間を揺れ動き、その時に反対派には弾圧が行われた。
 イギリスにもカルヴァンの思想の影響を受けた教派が出現した。その教派すなわち改革派は、国教会の不徹底な改革を不満とし、徹底的な宗教改革を要求した。その中からピューリタン(清教徒)が登場する。彼らは政治的弾圧を受けながら、1550年代から1660年代にかけて次々に国教会から独立し、非国教会系の諸教派を形成した。長老派、改革派、バプテスト、会衆派、クウェーカー等である。また、ピューリタンの一部は宗教的・政治的理想の実現のために1620年に北米に移住し、ピルグリム・ファーザーズとなった。
 国教会とピューリタンの対立は激化し、1649年に世界史上最初の市民革命であるピューリタン革命が起こった。指導者のオリバー・クロムウェルは国王を処刑し、共和政を立て、理想の実現を図った。しかし、その後の混乱の中で、1688年に名誉革命が起こり、「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が確立した。また、国教会が改めて国教と位置づけられる一方、非国教徒には信仰の自由を認めて自由教会(フリー・チャーチ)を作ることが許可された。以後、ピューリタンは政治権力を離れて、もっぱら教派として活動するようになった。
 北米では、ピルグリム・ファーザーズに続いて多くのピューリタンが移住し、ニューイングランドに植民地を作った。彼らは、教会を中心とする民主的なタウン・コミュニティを建設した。オランダ、フランス等からも移民が続いた。やがて彼らは、イギリス本国の支配に反発し、1776年にアメリカ独立革命に成功する。
 かくして宗教改革は、巨大な政治的な変動である市民革命を引き起こした。イギリス、アメリカの市民革命は、宗教改革なしにはありえない。単なる階級闘争ではなく、キリスト教における改革運動が政治的・社会的な変革を生み出したものである。市民革命とキリスト教の関係については、後に各国史・地域史の項目で詳しく述べる。

 次回に続く。
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