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2018年08月03日08:56

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キリスト教83〜プロテスタンティズムの倫理と初期資本主義の形成

●プロテスタンティズムの倫理と初期資本主義の形成

 西方キリスト教と近代資本主義には、深い関係がある。マックス・ウェーバーは、西欧でのみ近代資本主義が発生・発達した原因を追求した。ウェーバーは、社会の分析において、宗教と経済の関係に注目した。ウェーバーが特に注目したのは、西方キリスト教的ヨーロッパ文明においてのみ、「世界の呪術からの解放」が進展したことである。「呪術」を追放して、合理的禁欲と計画的自己統制の生活態度を強調するような合理的宗教は、ただ近代西欧にのみ発達した。そこに、ウェーバーは、ヨーロッパ文明の重要な特質を見出した。
 ウェーバーは、西欧での宗教における合理化の源を探った。そして、源を古代ユダヤの預言者に見出した。彼らは偶像崇拝を否定し、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥し、道徳的な規律による救済を説いた。ウェーバーはこうした態度が、西欧の宗教改革者に受け継がれたと見る。
 ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に次のように書いている。禁欲的プロテスタンティズムにおける「教会と聖礼典とによる救いの完全な廃棄こそは、カトリシズムに比較して無条件に異なる決定的な点である。現世を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思惟と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの魔術からの解放の過程は、ここに完結を見たのである」と。
 ウェーバーは、プロテスタンティズムによる「世界の呪術からの解放」を「宗教史上の偉大な過程」と呼び、「世界の脱呪術化」をよしとした。この宗教における合理化は、やがて生活全般における合理化の進展になっていった、とウェーバーは見ている。
 私見を述べると、ゲルマン民族のキリスト教への改宗は、自然崇拝・祖先崇拝の排除だった。その際、キリスト教を通じて、その根底にあるユダヤ文化が同時にゲルマン民族に流入・伝播した。それゆえ、ゲルマン民族の社会では、プロテスタンティズムの出現以前から、ユダヤ教における合理化に従う道がつけられていた。カトリック教会の支配下で始まった魔女狩りは、西方キリスト教圏における「呪術の追放」の始まりであり、非ユダヤ=キリスト教的な民衆信仰をさらに激しく攻撃したのが、プロテスタンティズムだった。
 ルター、カルヴァンらは、「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の立場を唱えた。信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張した。
 それまでは、カトリック教会が福音の施しを権威的に独占していた。その権威の核が、サクラメント(秘跡)であり、洗礼・堅信・告解(ざんげ)・ミサなど7種類ある。最も中心となるのは、ミサである。ミサでは、パンとワインを用いる。これらは、イエス=キリストの肉体と血を象徴するものとされる。パンとワインを使用することによって、イエスの磔刑による死と復活を象徴的に再現し、追体験するのが、ミサの核心であろう。これは救済のための象徴儀礼である。しかし、ルターは、サクラメントは救済を保証するものではないと否定した。
 さらにカルヴァンは、パウロ以来の救霊予定説を徹底した。予定説は、天国に行くか地獄に行くかは、人間の意思や行動には無関係で、神は永遠の生命を与えた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅に予定したと説くものである。ルターもこの説を継承した。カルヴァンは、これを論理的に徹底し、神の予定はアダム・エバの堕罪以前にすでになされていたとし、堕罪前に神が予めすべての人間を、ある者は救いに、ある者は滅びに予定したという二重予定説(堕罪前予定説)を説いた。
 予定説は、神の自由意志を絶対的なものとし、人間の道徳的努力は一切無力なものと断じた。誰が永遠の生命に予定されているかは、人間には知りえない。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だとする。カルヴァンは、これを徹底した。この教説は、人々を絶対的な孤独と不安に陥らせた。ウェーバーは「個々人のかつてみない内面的孤独の感情」とこれを表現する。信仰の仲立ちとしての組織を否定したとき、その一切を引き受ける主体は個人でしかないからだ。ここに、死後の救済を保証するものは何もなくなった。神と人が絶対的に向き合い、自分が一人で神に対面して結果を受けるしかないという、厳しい個人主義的な宗教が成立した。
 予定説を信じるプロテスタントにとって、自分が神から選ばれているか否かが最大の問題であった。この時、彼らに残された道は一つしかない。自分は神に選ばれているのだと考えて、すべての疑惑を斥けること、つまり自己確信をもつこと。そして自己確信を獲得するためには、職業労働に専念することであると考えられた。
 職業労働への専念は、ルターの「天職」という概念に基づく。世俗の職業は神が各人に与えた使命であり、「神の道具」となって職業労働に勤めることが「神の栄光を増す」こととされた。こうして救済を求める切実な宗教的欲求が職業労働に向けられることになった。
 ここで重要なのが、「禁欲」という概念である。ひたすら神の意志に従って、みずからの職業を天職として、職業労働に打ち込むこと。これは欲望や快楽や気まぐれや怠惰に流れる普通の生き方では実現できない。「神の道具」になるために、禁欲的に日常の生活をすみずみまで管理しなければならない。
 かつてカトリックの修道院では、厳しい禁欲的生活が行なわれていた。「祈り、かつ働け」と教えた。その修道士たちの行動的禁欲の生活が、今度は修道院の中ではなく、世俗的な社会で行なわれるようになった。これを「世俗内禁欲」という。来世を目指しつつ世俗の中で行う生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだった。
 ウェーバーは書いている。「宗教改革は、合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の職業生活の中に持ち込んだ」と。プロテスタンティズム、特にカルヴァンが徹底した予定説のもと、職業を天職として、労働に救済の確証を求めるという世俗内禁欲の倫理が、「資本主義の精神」となった。こうした精神があってこそ、資本主義は発生したとウェーバーは説く。神の栄光を増すための「道具」として、世俗的職業のために進んで刻苦精励するというこの精神こそが、近代資本主義の発展の重要な推進力であった、とウェーバーは考えたのである。

 次回に続く。
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