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2018年08月01日12:38

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キリスト教82〜ルター、カルヴァンらが宗教改革を推進

●ルター、カルヴァンらが宗教改革を推進

 マルティン・ルターは、1483年にドイツに生まれ、1546年に亡くなった。少年時代のルターは、フスの死後に結成され各地に広がった兄弟団の一つ、マクデブルクの兄弟団で育った。そこには、フス、さらにウィクリフに源を発する伏流がある。カトリック教会の腐敗・堕落に怒ったルターは、1517年、贖宥状(免罪符)を批判する95カ条の提題をヴィッテンブルグの教会の門扉に掲げた。これが西方キリスト教改革の口火となり、ヨーロッパに大変動を引き起こした。
 ルターは、1521年にウォルムス国会で追放刑を宣告された。庇護者を得てワルトブルグ城に逃れ、新約聖書のドイツ語訳に専念した。ローマ教会との論争の中で、万人祭司主義、聖書主義、信仰のみで義とされるなどの基本思想を固めた。当初は神学的な問題だったが、やがてドイツ諸侯の争いとからんで政治的な問題に発展した。そして、ルターは期せずして、カトリック教会に替わる新たな教会組織を形成することになった。これが「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれる教派の創始である。
 1524年春、賦役や増税等に反対する農民によってドイツ農民戦争が起こった。ルターは最初、農民たちの要求に同情したが、自らの改革の協力者だったミュンツァーが農民団の指導者にいることを知ると、一揆を批判するようになった。ルターの思想と改革の限界が指摘されるところである。ルターは、カトリック教会を厳しく批判する傍ら、王権については、神授なるがゆえに人民の抵抗を許さない絶対のもの、と説いた。農民戦争段階におけるルターの変化によって、宗教改革運動は民衆から離れ、領邦君主の利害関係や福音主義内部の教義論争に左右されるものとなった。ルターの思想の体制従順な面はルター派の政治姿勢に影響し、ナチスがドイツを支配した時代には、ルター派教会のヒトラーへの従順として現れることになった。
 さて、ルターが提示した宗教改革の思想は、北欧など各地に広まり、その影響で従来カトリック教会が唯一の教会だったヨーロッパにさまざまな教派が現れ、西方キリスト教が種々に分裂することになった。
 ルターの著作はスイスでも刊行された。チューリヒの司祭フリードリヒ・ツウィングリは、聖書研究に励むなかでルターに共鳴し、1523年1月に『67カ条宣言』を出して市議会に教会改革の実行を迫った。だが、聖餐の問題では、ルターと意見を異にし、提携できなかった。ツウィングリは、スイスのプロテスタント諸州の間に同盟を結び、その中心となった。カトリック諸州との対立が戦争に発展し、その中で戦死した。
 ツウィングリの改革運動は、各地に継承された。フランスのジャン・カルヴァンは、プロテスタントへの弾圧を避けてスイスに移り、1536年に『キリスト教綱要』を刊行した。ジュネーブに滞在中、改革派の牧師ギヨーム・ファレルの要請を受け、同市の改革に協力することになった。カルヴァンは聖書に基づく信仰という基本的立場をルター派の教会と共にしたが、二重予定説を唱え、倫理面を強調するなど、プロテスタントの教義を発展させた。また長老制に基づく教会を作って改革を実践・指導した。1549年のチューリヒ協定によってスイス改革派教会の基礎が定まると、母国フランスでユグノーと呼ばれる改革派信徒を支援した。また、スコットランドのジョン・ノックスを支援して長老派教会(プレスビタリアン・チャーチ)を設立した。
 西方キリスト教において宗教改革の立場を採る立場を福音主義(エヴァンジェリカリズム)と呼ぶ。ルター、カルヴァンらプロテスタントの挙げたスローガンは「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」の三つにまとめられる。プロテスタントは、信仰とは教会に従うことではなく、各個人が神と直接に向かい合うことであり、それによってこそ福音はもたらされると主張する。そして、自ら福音主義の名称を用いることで、カトリック教会のように聖伝にはよらず、聖書に基づく信仰を明確にする。福音主義教会は、宗教改革の伝統を保つ教会であり、ルーテル教会と改革派教会に分けられる。
 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。それによって、古代ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化が進んだ。また、キリスト教の民族化やナショナリズムの形成にも発展した。同時に、彼らは聖書の旧約の部分を読むことを通じて、ユダヤ教の思想の影響を受けた。これは、ユダヤ教のキリスト教への流入であり、プロテスタンティズムは、キリスト教の再ユダヤ教化という側面を持つことになった。
 プロテスタントは、東方正教会に改革への賛同を求めた。1573年に、プロテスタントとギリシャ正教の直接の交渉が行われた。チュービンゲンからルター派の使節団が派遣され、コンスタンティノポリスの総主教が正教側の総代として、これを迎え入れた。使節団は総主教に、アウグスブルグ信仰告白書を手渡した。これはルター派の信条を書いたもので、1530年、アウグスブルク帝国議会で皇帝カール5世に捧げられた。使節団は、正教会もプロテスタントによる宗教改革に加わるよう勧めた。総主教はこれに対して返書を出し、宗教改革をはっきりと否定する態度を明らかにした。
 近代西欧思想史における宗教改革の重要性は、非常に大きい。ルターなくして、カントもヘーゲルもニーチェも現れなかった。カルヴァンなくして、ロックもルソーもジェファーソンも現れなかった。宗教改革を経た近代西洋文明が世界的に拡大・普及したことを考えると、ルター、カルヴァンの影響は、間接的とはいえ、世界規模のものとなっている、と私は考える。

 次回に続く。
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