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2018年07月18日08:56

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キリスト教76〜東方正教会の中心はロシアへ

●東方正教会の中心はロシアへ

 東ローマ帝国が滅亡し、東方正教会がイスラーム帝国の支配下に置かれたことによって、東方正教会の中心は、ロシアに移ることになった。
 本稿では、東ローマ帝国の時代のギリシャ正教を中核としたビザンティン文明がロシアを中心とした地域に継承されて発展し、今日至っている文明を東方正教文明と呼ぶ。
 東方正教会の伝承によれば、現在のウクライナ、ベラルーシを中心とするルーシ地方に正教が伝道されたのは、12使徒のひとりであるアンデレ(アンドレイ)にさかのぼるとされる。9世紀からキュリロス・メトディオス兄弟などによって、東ヨーロッパのスラヴ人への布教が進められた。東方キリスト教が本格的にルーシに伝えられたのは9世紀後半、コンスタンティヌス総主教フォティオスによる。ルーシでは、東スラヴ人がキエフ大公国を中心に、いくつかの公国を形成していた。 988年にはキエフ大公のウラジーミル1世が東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、東方正教会の洗礼を受け、990年に東方正教を国教とした。大公は、キエフさらにモスクワに府主教座を設けた。本稿では、北東のモスクワ方面にも及ぶ、より広範な地域をロシアと呼ぶ。
 東方正教会はやがて土着化してロシア正教となり、ロシアの文明に東方正教文明と呼ぶべき宗教的特徴を与えた。また、ロシアは東方正教文明の中核国家として発展していった。ロシア正教は、1917年の共産革命まで、ロシアの国教だった。
 ロシアがイスラーム文明と接触し、その影響を受けたのは、モンゴル人による。1240年ごろ、チンギス・ハンの孫バトゥが来襲し、キエフ等の諸公国が滅ぼされ、キプチャク・ハン国の支配下に置かれた。1480年まで続いたこの時期を「タタールのくびき」時代という。タタールとは、モンゴル軍に従ってきたトルコ系住民の子孫のことで、モンゴル人はこのタタール人と混血し、さらにその宗教であるイスラーム教を自らの国教とした。モンゴルのロシア支配は苛酷だったが、信仰に関しては比較的寛容だった。
 「タタールのくびき」のもとでも、ロシア正教は保持された。ロシア正教では、歴史的に修道院の役割が大きい。修道院については先に書いたが、10世紀に東ローマ帝国皇帝のニケフォロス2世フォカスの後援で、ギリシャ半島のアトス山に修道院共同体が成立した。アトス山では、13世紀後半から静寂主義(ヘシュカスモス)が体系化された。静寂主義とは、絶え間ない祈りによって神を黙想し,それによって聖なる静寂に達しようとする神秘主義的な修道方法である。これがロシアに移植されて発展した。
 ロシアには、それまでにも修道院があったが、静寂主義の影響を受けて、14〜15世紀には荒野修道運動が活発に行われ、中部・北部ロシアの原生林に修道院が建設された。1345年には、ロシア復興の父と呼ばれるラドネジのセルギイによって、後にロシア正教会最大の修道院、至聖三者聖セルギイ大修道院に発展する修道院が設立された。それに続いて、多くの修道院が建てられ、それぞれの修道院がキリスト教文化の中心となった。
 修道院は、ロシア正教の信仰共同体として、モンゴルによる恐怖政治と相次ぐ戦乱にあえぐ人心の安定に大きく寄与した。修道院は、自給自足を原則とする農業共同体でもあり、無人の原生林を開拓して国土開発を行った。輪作等の西欧の農業技術を導入し、ロシアの農業技術の改良にも貢献した。
 1380年、ラドネジのセルギイを精神的な師父とするモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイは、ロシア諸公連合軍を率いて、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破った。このクリコヴォの戦いによって、「タタールのくびき」を脱したロシアは、モスクワ大公国を中心にして全土を統一しつつ、専制と農奴制を確立していった。また、東ローマ帝国に次いで、伝道活動の中心となり、多くのモンゴル人と北方のフィン族を東方正教に改宗させた。1453年に東ローマ帝国が滅亡した後、ロシアは事実上、東ローマ帝国の後継者となり、ロシアの教会は、ロシア正教会として東方正教圏最大の勢力となっていった。

 次回に続く。
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