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2018年07月04日09:30

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キリスト教70〜ヨーロッパ中世のスコラ神学

●ヨーロッパ中世のスコラ神学

 西洋史にいう中世は、西方キリスト教の思想史では、教父神学からスコラ神学への移行と後者の完成の時代である。
 スコラ神学の「スコラ」は学校または学院を意味する。スコラ神学は、神学を中心として哲学、法学、自然学等を包摂した学問の総称である。9世紀から16世紀に及ぶキリスト教神学の主流であり、キリスト教とギリシャ哲学の総合を試み、信仰の内容を学問的に根拠づけ、教義を組織し、体系化しようとしたものである。
 その萌芽は、9世紀のカロリング・ルネサンス期に始まる。ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナは、新プラトン主義にもとづくキリスト教哲学を展開した。彼によると、神はイデアと自然を創造した。すべての運動はその端緒である造物主の神へと向かい、そこへ戻ろうとする。目的となる神への還帰は、キリストの復活を以って始まった。キリストにおいて成就したことは、すべての人類において、普遍的復活によって成就されるだろう。こうした思想によって、エリウゲナは、スコラ神学の先駆と言われる。ただし、その汎神論的な著作は発行を禁止された。
 スコラ神学が開花したのは、「12世紀ルネサンス」においてだった。十字軍を通じてアリストテレス哲学がイスラーム文明経由で摂取され、先進的なイスラーム思想が西欧に流入した。また、古典古代の学問研究を行う大学が各地に創られた。
 そうしたなか、「スコラ神学の父」と称せられるアンセルムスは、理性に対する信仰の優位を主張し、「知解を求める信仰」を説いた。教会の教義を信仰をもって受け入れ、それをプラトンとアリストテレスの哲学の助けを借りて理解しようとするものであり、信仰と理性の総合をめざす学問的企てだった。また、アベラール(アベラルドゥス)は、詳細な文献批判と厳密な論理的検討を行うスコラ的方法を確立し、スコラ神学の論理的体系化への道を整えた。
 スコラ神学が哲学的な基礎として採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスの主要な著作が逐次翻訳され、影響を広げていった。それまでの神学は、プラトン主義的なアウグスティヌスの思想に基づくものだったので、伝統的なアゥグスティヌス主義と外来のアリストテレス哲学の融合が、スコラ神学の根本的課題になった。
 スコラ神学は、13世紀に盛期を迎えた。ドミニコ会のアルベルストゥス・マグヌスは、本格的にアリストテレスの研究を行い、学問的水準を高めた。その弟子トマス・アクィナスが、スコラ神学を完成に導いた。
 トマスは、1266年から筆を起こして未完に終わった『神学大全』で、キリスト教神学において、新プラトン主義、アウグスティヌス、イスラーム哲学、ユダヤ哲学などを総合する独自の思想を作り上げた。彼の神学の拠り所は、万物の始源からの発出と還帰という新プラトン主義の原理である。トマスはこの原理に基づいて、宇宙を第一原理・創造主なる神から発出して、究極目的なる神へ還帰する運動として捉えた。そのうえで、神への還帰の「道」としてのキリストを考察している。
 トマスの業績を、「トマス的総合」という。信仰と理性とを分離したうえで、どちらかの優越を主張するのではなく、両者の内的総合を追究し、神を中心とする信仰の超越性と人間理性の自律性とを両立させたものとされる。そこにおいては、理性と啓示は矛盾せず、理性と信仰の間に断絶がない。
 トマスは、アリストテレスの形相と質料という二つの概念を使って自然を分析した。それによって、啓示に基づく啓示神学とは異なる、自然的理性によって神の存在や属性を考察する自然神学の研究の道を開いた。
 スコラ神学はトマスによって頂点に達したが、13世紀末から14世紀に入ると、教皇権の衰退と教皇庁の頽廃によって、中世社会の秩序は崩れ始めた。その秩序を支えていたトマス神学への批判が起った。
 アウグスティヌス主義を保守するフランチェスコ会のドゥンス・スコートゥスは、理性の一貫性が保持されて神学と哲学の間に断絶がないトマス神学に対して、その両者を区別し、信仰と理性の融合は困難だと強調した。神の理解に関して理性は無効だとして、直観すなわち神秘的認識を主張した。彼の思想は、16世紀の宗教改革で現れる福音主義的な立場の先駆と見られる。福音主義とは、儀礼・制度・伝統などを重んずる立場に対し、イエス=キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想である。
 ローマ・カトリック教会では、パウロ、アウグスティヌスによって、救霊予定説を教義とした。だが、中世においては予定説を緩め、因果説を加えた折衷論に変化した。その論を提示したのが、トマスである。
 トマスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。これは、人間の自由意志を認める立場である。自由意志を認めるならば、人間の努力が救いに結び付くという因果説になる。それでいてトマスは予定説を否定していないから、予定説と因果説の折衷であり、一部に因果説を含む予定説になる。トマスは、人間の自由意志を認めていながら、人間は放っておいて倫理的に行動するものではないと見た。では、誰がその不断の指導と援助とを与えるのか。トマスの理論によれば、それは教会である。この論理を得たカトリック教会は、秘蹟の行使、教会・修道院規範の確立といった本来の教義と異なる方向にひた走り、腐敗を招いたのだった。16世紀の宗教改革で、ルターやカルヴァンがパウロ、アウグスティヌスの救霊予定説の復活となるような主張をしたのは、カトリック教会への批判において、重要な争点となったわけである。
 ところで、話を中世の14世紀に戻すと、ドゥンス・スコートゥスによるトマス的総合への批判を徹底して、純粋な信仰と経験的・実証的な学問とが分離する道を開いたのが、同じくフランチェスコ会のウィリアム・オッカムである。オッカムの中心思想を唯名論という。その説明をするには、普遍論争について述べる必要がある。そこで項目を改めて書く。

 次回に続く。

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