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2018年06月29日12:06

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キリスト教68〜カトリック教会の分裂と混乱

●聖職叙任権闘争

 ここで、西方キリスト教のヨーロッパ文明の内部における動きを書く。ヨーロッパ文明では、10世紀末に神聖ローマ帝国が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立した。ここで生じたのが、聖職者の任命権をめぐる問題である。
 ゲルマン人の教会は、もともとローマ人の教会と異なり、農民の私的所有権と自主性を保持する私有教会だった。教会は設立者である君主の支配を受け、その指導者・管理者である司教の叙任はその所有者の意志に従わねばならなかった。しかし、11世紀に入ると、有能な教皇たちが、それまで世俗領主たちに握られていた聖職者の任命権を獲得することによって、教会の影響力を世俗的な社会においても強めていった。そこで教会と皇帝や各地の君主との間で対立が起こった。これが聖職叙任権闘争である。
 1075年以降、教皇グレゴリウス7世は世俗君主による叙任を禁じた。これに、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が反発し、激しい抗争が行われた。1077年皇帝が教皇の廃位を要求したところ、逆に破門された。皇帝は、ドイツ諸侯の反乱を恐れ、北イタリアのカノッサに教皇を訪ね、恭順の意を示した。それによって波紋を解かれた。このカノッサの屈辱と呼ばれる事件は、皇帝権が教皇権に屈服した象徴的な出来事である。
 教皇は、宗教上の指導者であり、帝国の政治権力を持たず、軍隊の指揮権も持たない。そうした教皇がどうして、中世ヨーロッパでは皇帝を上回る権限を持つようになったか。その理由は、中世ヨーロッパの社会が信仰を絆とした信仰共同体であることによる。
 その社会の価値観によれば、ローマ教皇は、神から与えられた権威を持つ。これに対し、世俗の権力は、人間の堕落と罪の産物である。皇帝は、即位に際して、聖職者によってその役割を聖なるものに高められる。現世の秩序は、教皇の指導によって初めて道義的、宗教的に正しいものにできる。したがって、教皇は皇帝を監督する権利と義務を持ち、皇帝は教皇に服従しなくてはいけない。皇帝がもし教皇の指導を拒むならば、破門された。破門は、信仰共同体から追放されることである。破門になると、家臣は服従義務が解消され、皇帝に従わなくなる。武力・財力等の権力の基盤が消滅する。それゆえ破門によって、すべての権利を失うことになる。そのうえ、破門によって、救いへの道が絶たれる。教皇は天国への扉の鍵を握り、個々の信者に対して天国への扉を開くことも閉じることもできる。そういう宗教上の判断権を持ち、また裁判権も持っている。こういう社会において、皇帝は教皇の宗教的な権威に従わざるを得なかった。
 叙任権闘争は以後も続き、1122年には教皇カリトゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で、ウォルムス協約が結ばれ、ドイツ地方以外での叙任権は教皇に帰属することとなり、皇帝権は後退した。

●カトリック教会の分裂と混乱

 叙任権闘争を通じて、ローマ・カトリック教会では、教皇権は世俗の皇帝権・国王権を超越した権威であるという認識が強まった。13世紀初め、教会法の専門家であり、政治家としても有能だった教皇インノケンティウス3世は、皇帝の選挙に干渉し、イングランド王ジョン、フランス王フィリップを破門にするなど、名実ともに教皇権の優越性を示すことに成功した。1215年に召集した第4回ラテラン公会議で「教皇は太陽、皇帝は月」と演説した。
 また、教皇ボニファティウス8世は、1302年に教書「ウナム・サンクタム」を発し、教皇はキリストの代理者として霊界と俗界の二つの剣を持つと説いた。これを両剣論という。彼は、俗界の剣を行使するのは王と騎士であっても、彼らに命令を下すのは教皇の側であると主張し、「すべての人間は霊魂の救いを全うすべく、ローマ教皇に服従すべきである』と宣言した。当時、各国の国王が権力を強めはじめていた。教皇の宣言は、絶対王政を目指すフランス王フィリップ4世に対抗しようとしたものだが、アナーニ事件でこの戦いに敗れ、ボニファティウス8世は憤激のうちに没した。彼の死後、教皇権は衰退した。
 一方、国王権はフランスやイングランドなどで増大し続け、教皇庁と各国君主の間で、教皇権の優越という概念をめぐって争いが行われるようになった。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権等が激しく争われた。この状況において、教皇を補佐すべき高位聖職者である枢機卿たちは、自らの出身国や結びつきの強い国家の利益の代弁者のようになって争った。
 フィリップ4世は枢機卿団の争いを利用して、教皇庁に介入し、フランス出身の教皇クレメンス5世の擁立に成功した。王の意を受けた教皇は、1309年に教皇庁をフランスのアヴィニョンに移した。以後、1377年にグレゴリウス11世がローマに帰るまで、7代の教皇がフランス王権に屈した。これをユダヤ人のバビロン捕囚にたとえて、アヴィニョン捕囚という。
 教皇のローマ帰還後も、アヴィニョンには別の教皇が並立し、西方キリスト教の教会分裂(シスマ)が続いた。事態収拾のために開かれた教会会議は、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇を選出したものの、2人が廃位を認めず、3人の教皇が鼎立するという異常な事態になった。
 前例のない混乱によって、教皇の権威は低下し、聖職者たちの中で公会議が教会の至上決定権を持つべきだとする考えが強まった。これを公会議主義という。この主張を受け入れた皇帝ジギスムントは、1414年にコンスタンツ公会議を招集した。この会議は3人の教皇の退位に成功し、新たな教皇が選出された。また、教会の抜本的な改革の実施が宣言された。この改革を「頭と体の改革」という。しかし、改革は進まず、公会議によって教会を変えるという理想は潰えた。そのことが宗教改革への一つの伏線となった。

 次回に続く。
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