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2018年06月28日08:54

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キリスト教67〜十字軍と東西教会の決定的分裂

●十字軍と東西教会の決定的分裂

 1054年の東西教会の分裂後、西方キリスト教のヨーロッパ文明は、イスラーム文明への反攻を行った。それが十字軍である。十字軍は、1096年から1291年まで、約2世紀の間、8回繰り返された。これは、イスラーム文明の圧力によって陸地に封じ込められたヨーロッパが、その外圧をはねかえそうとした動きだった。この二つの文明の間の戦いは、キリスト教とイスラーム教との宗教戦争であり、またユダヤ教を元祖とする一神教、聖書を共有する啓典宗教同士の争いだった。
 11世紀になると、西欧では、農業生産力の向上によって人口が増加した。生活に余力が生まれ、聖地巡礼が盛んに行なわれるようになった。ところが、エルサレムは異教徒に支配されていた。エルサレムは本来、ユダヤ教の聖地だが、イエス・キリストが処刑され、復活した地でもあり、キリスト教にとっても聖地となっていた。
 この聖地を支配するイスラーム文明では、11世紀にトルコ民族がアッバース帝国に侵入して、セルジューク朝を築いた。ローマ帝国崩壊後、地中海東部では、東ローマ帝国が、ギリシャ=ローマ文明を継承して独自の発展を続けていた。セルジューク朝は、東ローマ帝国を圧迫した。セルジューク朝の進出を抑止できない東ローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇に援軍を求めた。
 教皇ウルバヌス2世は、この求めに応じ、1095年に十字軍遠征を提唱した。東西教会は1054年に分裂したが、なお外敵に対してはキリスト教徒同士が協力したのである。ヨーロッパの諸侯や騎士たちは、教皇の呼びかけに応え、十字軍を結成した。遠征は、聖地回復という理想の下、1096年に第1回の遠征が行われた。
 第1回十字軍はエルサレムの奪回に成功した。この時、聖地では5万人のうち4万人が殺戮され、略奪が行なわれたという。ソロモン神殿では、兵士たちがくるぶしまで血につかって進むほどの殺戮がなされたと伝えられる。
 第1回十字軍の遠征に協力した見返りとして、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサの3都市は、占領地域での貿易特権を獲得した。十字軍の経済効果は大きかった。度重なる遠征で兵士や物資の輸送が行なわれることにより、これら北イタリアの港湾都市が発達した。それによって、西ローマ帝国滅亡後、沈滞していた商業がヨーロッパに復活した。
 当時はイスラーム文明の方が、ヨーロッパ文明よりはるかに高い文化を持っていた。イスラーム文明は、西ローマ帝国滅亡後も繁栄を続ける東ローマ帝国の文明から文化要素を摂取した。イスラーム地域に侵入したキリスト教徒たちは、そこに保存されていたギリシャ=ローマ文明の遺産を持ち帰った。このことが大きな刺激となり、ヨーロッパに「12世紀ルネサンス」と呼ばれる知的運動が起こった。古典古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が翻訳された。
 イタリア商人は、やがて地中海東部の交易を支配するようになった。そのきっかけは、1202年〜1204年に行われた第4回十字軍である。
 第4回十字軍は、教皇権の絶対性を確信する教皇イノケンティウス3世が招集した。この時、東ローマ帝国で帝位をめぐる争いが起こり、支援を求められた十字軍は、コンスタンティノポリスを陥落し、ラテン帝国(ロマニア帝国)を築いた。占領は1203年から61年に及んだ。西方キリスト教徒の十字軍がコンスタンティノポリスに侵攻したことに、東方正教会は憤った。それが東西教会の決定的な分裂に結果した。
 第4回十字軍の遠征の際、北イタリア諸都市の商人は十字軍の軍事力を利用して、イスラーム教徒(ムスリム)の商人、ビザンティン商人を排除し、東地中海交易の支配権を握ろうとした。ヴェネチア商人は、兵士たちに借金の代償としてアドリア海に面した都市ザラへの攻撃を求めた。兵士たちはザラで多くのキリスト教徒を殺害した。怒ったイノケンティス3世は兵士たちを破門にした。
 第4回十字軍の結果、地中海東部の商業権は、ヴェネチア商人に移った。これに対抗して、ジェノヴァ商人は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国を助けた。ジェノヴァ支援のニカイア帝国は、1261年にヴェネチア支援のラテン帝国を滅ぼし、東ローマ帝国を復活させた。こうしてヴェネチア商人から主導権を奪い取ったジェノヴァ商人は、当時大発展していたモンゴル帝国のムスリム商人と積極的に結びつきを進めた。
 ヴェネチアやジェノヴァは、地中海の制海権がセルジューク朝やモンゴル帝国に握られている時でも、ムスリム商人と取引を行なっていた。政治や宗教と経済活動は別である。この東方交易による経済的繁栄が、後のイタリア・ルネサンスの物質的基礎となっていく。
約200年に渡る十字軍の過程で、新たな修道会が誕生し、聖地巡礼者の防衛、イスラーム教徒への伝道、捕虜交換と傷病者治療の救出等を行った。新たに誕生した修道会の一つ、ドミニコ会は、イスラーム圏からのアラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレスの哲学を再発見し、スコラ神学の開花に貢献した。
 十字軍の時代、ヨーロッパ文明は一方的に攻勢をかけていたわけではない。1242年には、モンゴル帝国の侵攻を受け、モンゴル軍がウィーン郊外まで達するという危機に直面した。しかし、ウィーン侵攻を避けられ、破壊・略奪を免れた。
 その後も十字軍遠征は、1291年まで続けられた。だが、エルサレムはイスラーム教軍に奪い返され、結局当初の目的である聖地奪回は失敗に終わった。その結果、教皇の権威は失墜した。また、十字軍遠征の繰り返しによって、騎士階級は疲弊し没落した。封建領主の力は弱まり、農奴に貨幣地代の納入を認めた結果、富農や独立自営農民が出現し、封建制が変動することになった。封建領主の地位が相対的に低下したことによって、国王が中央集権化を進め、絶対王政が出現することにもなっていった。
 西方キリスト教の十字軍による首都占領を経験した東ローマ帝国は、その後もイスラーム教徒の西方進出によって衰退していった。そして、最終的にオスマン帝国によって1453年に滅ぼされることになる。

 次回に続く。

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