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2018年06月23日08:20

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キリスト教65〜ヨーロッパの内陸化と封建制の発達

●ヨーロッパの内陸化と封建制の発達

 西アジアでイスラーム文明が興隆すると、かつてはローマの海だった地中海が、「イスラームの海」になった。その結果、ヨーロッパは、地中海から閉め出されてしまった。ヨーロッパは、イスラーム文明の圧力によって、陸地に封じ込められた。そうした条件の下、初期のヨーロッパ文明は、内陸的な性格をもって成長した。
 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「文化的統一体としてのヨーロッパ」を誕生させたのはイスラーム化した地中海だと言う。「イスラームなくして、疑いもなくフランク王国は存在しなかったであろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と彼は記している。
 陸地に閉じ込められたヨーロッパでは、土地を唯一の富の源泉とする経済秩序が生まれた。ギリシャ=ローマ文明の影響により、ヨーロッパ文明では、部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとしたのだが、統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、封建制が出現することになる。
 封建制は8世紀末から9世紀の初め、カール大帝の時に形成され、11〜13世紀にその最盛期を迎え、以後解体していった。
 封建制では、財の分配は、主として当事者間の社会的交換によって定まった。主君は臣下に土地を与えて、保護下に置き、臣下は主君に忠誠を誓い、騎士として軍務を負う。こうした主従関係は、授封された者がさらに土地の一部を従者に与えることで重層化した。封建制の経済的基盤は、荘園制だった。領主は所領に農奴を抱え、農奴には生産物の一部を領主に納める貢納と、労働を提供する賦役が課せられた。
 封建制は、日本文明とヨーロッパ文明でのみ発達した制度である。封建制は、ユーラシア大陸の中心部で発達した古代帝国の多くに見られる家産制と違って、中央集権による専制体制ではない。そのため、生産力が向上すると、各地の領主が自立性を強め、急速に社会変動が進んだ。商品経済が発達すると、農村共同体が解体し、都市化が進み、資本主義が発達した。封建制は、西欧で近代化革命が起こった経済的・社会的条件であり、日本が後発的な近代化を成功できたのも、封建制社会だったからだといえる。
 封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合ったが、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いはあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は、近代化を担う主体が育成される土壌ともなったのである。

●神聖ローマ帝国の成立

 ヨーロッパ文明では9世紀にはいると、フランク王国が相続争いによって衰退した。843年のヴェルダン条約で三分割され、数年後のメルセン条約により再分割された。西フランク王国では、987年にカロリング朝に代わってカペー朝のフランス王国が成立した。一方、東フランク王国では962年に、オットー1世が教皇より帝冠を受けて神聖ローマ帝国が成立した。
 神聖ローマ帝国は、ローマ帝国→西ローマ帝国→フランク王国に続く帝国としての名称を持っていた。そして帝国の長にふさわしいとみなされた者が、ローマで戴冠し、皇帝に就任した。
西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれていた。だが、神聖ローマ帝国が成立したことにより、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、政治的に独立した。またそれによって、教皇と神聖ローマ皇帝が並立するヨーロッパ独自の政教体制が出現した。
 神聖ローマ帝国の領域は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に広がっていた。帝国とは言っても、実質的には大小の国家連合体であって、古代ローマ帝国の栄光にあやかった理念的な国家だった。それにも関わらず、神聖ローマ帝国は、1806年に消滅するまで、8百年以上も存続した。

 次回に続く。
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