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2018年06月20日09:12

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キリスト教63〜修道院の発生と発達

●修道院の発生と発達

 ここで制度的な教会と対比されるものとして、修道生活について書く。人間には、個人性と社会性がある。それゆえ、宗教にも個人性と社会性がある。宗教の社会性は、集団の組織化、機構の制度化に現れる。宗教集団の規模が大きくなれば、権威と権力による組織運営が必要となる。これに対し、宗教の個人性は、信仰に基づく個人の体験や自覚によって深められる。宗教が社会性に傾き、個人性を軽視したら、形式化、形骸化に陥る。古代・中世のキリスト教において、個人性の方面は、修道生活において実践された。ただし、修道生活もまた集団で行う場合、集団の組織化、機構の制度化が必要になる。
 古代のキリスト教では、洞窟や砂漠で一人で修行し、隠遁生活を送る者がいたとされる。東方キリスト教では、西方キリスト教より、積極的に自由意思を肯定するので、人間の努力によって神に近づこうとする修道が発達した。3世紀に聖アントニウスがエジプトの砂漠で修道生活を行ったのが、そのはじめとされる。修道者は隠者だが、独居は困難であるから、集団で暮らすようになった。これがキリスト教の修道制度の起源とされる。その由来は、さらに荒野で厳格な共同生活を営んだユダヤ教エッセネ派などに求められるだろう。
 4世紀にローマ帝国においてキリスト教が公認され、さらに国教になると、禁欲的な生活を求める人々が、砂漠や荒野で修道生活を行う運動に加わった。
 東方キリスト教において、ビザンティン・ハーモニーに安住することをよしとしない者たちが、都市を離れて荒野に移り住んだ。彼らは、過酷な環境で苦行し、自らキリストの完璧な生きた映しとなることを目的とした。修道士は時に帝権と対立し、民衆の代弁者として発言・行動した。彼らは発言権を増していき、高位聖職位を独占するに至った。東ローマ帝国では、政府が修道士を保護し、ギリシャのアトス半島や北西部のメテオラなどの山岳地には大規模な修道院が造られた。
 修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。4世紀末〜5世紀初めのラテン教父ヒエロニムスがこれを西方教会に伝えるにあたって大きな役割を果たした。ベネディクトゥスは、529年ごろモンテ・カッシノに修道院を起こした。彼の生み出した修道制度は、会則を定め、所属する修道者が同じ精神を共有することに最大の特徴がある。ベネディクト会では、東方の修道士のように禁欲的な修行をして神秘体験を求めて教会に対立するものではなく、合理性と秩序のある生活を維持しながら、謙卑 (フミリタス) をもって神と教会とに仕えることを旨とした。「祈れ、そして働け」をモットーとし、信仰生活だけでなく労働を重視し、荒れた土地を開墾し、農業技術やそれに伴う醸造・製造技術を発展させた。また貧者の救済や病人の世話などの社会活動を教会のために行った。
 ベネディクト会の確立したスタイルにならって、多くの男女修道会が生まれた。そうした修道会では、誓願を立てる。誓願の主な内容は「貞潔、清貧、従順」の三つである。貞潔は、結婚と家庭生活を放棄すること。清貧は、私有財産を放棄し、生活の糧を共有すること。従順は、目上の指導に神の意思を読み取ることである。
 厳しい規律を持って信仰・労働・社会活動を行う集団生活は、ウェーバーが「世俗外禁欲」、「行動的禁欲」を実行するものだった。修道僧たちは、そのように生活していれば、神の救済を受けられると信じた。彼らの集団労働は強大な生産力を発揮し、修道院はその生産力によって、経済的に完全な独立を成し遂げた。また、結果として富を蓄積することになった。中世の西方教会の教えは、富を欲して儲けるのは禁止だが、結果として富が得られることは許された。
 修道院の瞑想、読書、労働の生活が人々に感化を与え、多くの土地の寄進を受けた。その結果、修道院は次第に大規模な土地経営者になっていった。

 次回に続く。
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