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2018年06月19日16:57

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精神の物語(53) 吉本隆明「最後の親鸞」春秋社1981年

1枚目 親鸞系図
2枚目 妻の恵信尼墓 上越市
3枚目 娘の覚信尼碑 京都西大谷(大谷本廟)

 本書でも指摘されているが親鸞の生涯はほとんど分かっていない。ここで掲げた系図も一説にすぎないのだが、私としては親鸞研究者だった古田武彦説に近いので揚げておいた。ただ、最初の妻は、そして生涯の妻は恵信尼の方だと思う。古田説では同時に二人の妻を持っていて、当時としては普通のことだったとする。正妻は当然兼実の娘だったろう。兼実は法然の熱心な信者だったのである。
 京都にいた恵信尼が故郷の越後に帰って、代わりに常陸にいた娘の覚信尼が京都の親鸞のもとに行って生活や布教の世話をしていた。そういう状況で、恵信尼から覚信尼宛の手紙が残っている。そこには親鸞が比叡山を降りて(つまり退学して)法然のもとに行ったのは自分と正式に結婚(この時点で比叡山からみれば僧侶ではなくなっている)するためだったと書いているとのこと。

 1.法然と親鸞の関係
 ここで吉本の言う「最後の」とは、親鸞の越後配流が許された後、京都の法然のもとに戻らずに常陸(茨城県)など関東の布教を志した、その時の親鸞の心境と信仰を指している。吉本は、ここで法然の教え(浄土宗)を乗り越えて新しい境地、つまり浄土真宗へと踏み出したのだと言いたいのである。
 ただし絶縁したわけではないのは、晩年の親鸞が京都に帰って執筆や指導、生活の本拠にした場所は、法然の知恩院の隣で、そこで死んだことでも証明されると思う。その地は江戸時代に知恩院が拡張されたので今の清水寺から尾根を降りた西大谷(大谷本廟)に移された。

 そこで本書では法然の教えと最後の親鸞とがどこがどう違っているのか、ということが主題となる。

 浄土三部経に基づく浄土教や阿弥陀仏の教えは日本にも飛鳥時代ぐらいに伝来して人気のあった教えである。それは信者が死ぬときに阿弥陀仏が迎えに来て極楽浄土へ連れて行ってもらえると信じられたからである。
 むろん、そのためには寺や僧侶に寄進して善徳を積む必要があった。また僧から教えられた極楽浄土を心の中に見る(観想)できるように修練する必要もあった。そして、その程度によって上・中・下の三段階の極楽に振り分けられたのである。

 その浄土教のシステムに真っ向から挑んだのが平安末に生きた法然(1133−1212)だった。南無阿弥陀仏と唱えるだけでよいのだ。浄土教のことは何も知らなくてよい。ただ、阿弥陀様にお任せします(他力本願)というだけでよいのだと主張し、上は九条兼実や式子内親王などの皇族・大貴族から一般大衆までの人気を博し、その代わり旧仏教側から憎まれていた。法然は、むしろ浄土教の知識を持っている人よりも何も知らない大衆の方が信仰による(自力本願)のでなく、ただ阿弥陀にすがろう(他力本願)とするので極楽に近いと考えていた。

 で、吉本の言う親鸞は、大衆だからイノセントだとは言えない。ただ素直に阿弥陀仏にすがる生活をできるとは限らない。それなりに自分は良い極楽へ行けるはずだと考えたりする。親鸞は大衆の生の行動を越後の流罪中に知ったに違いない。その大衆認識の深化が、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」の悪人正機説を生んだのである。
 
つまり、芥川の「蜘蛛の糸」のように仏を信じきれない「悪人」ではダメなのである。大衆にも欲があり、悪知恵を働かせること、それを説教の場に来た大衆しか知らない法然は気づかなかったのだ、そこが親鸞との違いだと吉本は考えたわけである。

この吉本説を読んでいて、共産主義運動における知識人指導者と大衆プロレタリアとの関係に似ていると思わざるをえなかった。大学でマルクス主義を学んだ知識人が指導的立場にたつわけだが、その時に、自分は子供のころから働くような、生まれついてのプロレタリアではないというコンプレックスを持つらしいのである。あるいは、苦学して階級矛盾の知識を得た共産党員とブルジョア上がりの知識人党員との論争を読むと、はしばしに
その出自が問題にされていたように記憶している。
 吉本もそこから法然と親鸞の関係を導いたのでなかろうかと思えるのである。吉本自身が苦学していたとも思えないし。

 2.仏教信仰に至る動機
 釈迦が王宮での生活を捨てて修行の道に入ったきっかけは生老病死の四苦を知り、そこから逃れるために修行者になったとされていたと思う。
 一方、インド古来のヒンズー教には輪廻の思想があって、命自体は永遠だが、次の世では動物や虫に生まれ変わるかもしれない。仏教はその輪廻の連鎖の恐怖を解脱することによって断つことを目的としている。
 本書では、吉本は生老病死のことには触れず、もっぱら輪廻の恐怖が浄土を求める動機だとしている。しかしながら、インドの古来からの民俗に染み込んでいると思われる輪廻思想は日本にはないはずである。私の場合親から聞いたのではなく、確か「次郎物語」を読んでのことだったと思う。
 むしろ、日本人は柳田国男が言うように、死んだ人の魂は近くの里山に留まっていて、誰か赤ん坊が生まれた時にその魂になると、だからこの子は先に死んだおじいさんかおばあさんの生まれ変わりだ、と言ったりしたのである。

 だから日本人の極楽浄土は親族一同が一緒に暮らすようにイメージされているはずで、特に安芸門徒の場合、墓石には倶会一処(くえいっしょ)と彫られているだけである。何々家の墓とはならない。私の家の墓は南無阿弥陀仏となっていて、脇に戒名などが書いてある墓誌が付いている。
 つまり浄土真宗は日本人の古来からの生死観に近いものなのである。

 「遠野物語」を素材にした「共同幻想論」の著者が、なぜインドから渡来した輪廻思想にこだわっているのか分からない。というか、親鸞自身が輪廻にこだわっていたというのか? だとすれば親鸞が問題になる。彼の思想が結局外来思想の祖述に過ぎなかったとなるからである。
 むしろこう考えるべきかもしれない。法然や親鸞は輪廻を問題にして、説教でもその恐怖を教えたかもしれないが、教育のない大衆(凡夫)自身は一族が永遠に安らげる楽園と思っていた可能性がある。輪廻するのが本当なら、それぞれ何に生まれ変わるか分からなくなるし。
 日本に特有だとされる許されない恋人たちの心中も、極楽で夫婦になろうとするためものだからである。

 ということで、浄土教の一つの役割は、死の苦しみを浄土を観想させることで和らげるというものにちがいない。
 もう一つの、法然と親鸞の他力の思想については、この世は阿弥陀仏の力が覆っている。それを信じて生きよ、幸運も不幸・不運も、自分個人の努力の結果と思われるものも、阿弥陀仏の慈悲のなかでのこと、と信じるわけである。
 ただし、これも共同体の中で生きて死んだ人々の心性に近いものだと思う。古代人が個人主義者であるはずもなかった。

 以上、本書に忠実なものではなく、私が感じた部分だけに反応したもの。

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