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2018年06月16日20:39

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ファンタジーの中へ(99) 秦郁彦「漱石文学のモデルたち」講談社2004

 本書の内容は題名どおりだが、漱石の初期作品である「坊ちゃん」(1906)、「吾輩は猫である」(1905)、「三四郎」(1908)のモデルが誰で、どういう人物だったかを探索したものである。それについては、昔から盛んなのだが、著者は歴史家の目と探索力で出来るだけ的を絞っていったのである。
 ところで、著者(1932−)だが、もともとは大蔵省官僚だったとのこと、南京事件などの研究で知っていたのだが本職は知らなかった。

 モデルたちであるが、漱石自身やその関係者は明治日本のトップエリートで、全国級でなくても其々の分野や地域で名を残した人が多いので、エピソード集として面白く読めた。
 それはそれだけなのだが、著者が言うように、後期の作品(「それから」1909 以降)にはモデルが誰かとか関心を呼んだことがなかった。登場人物も数が少なく面白いキャラクターもいない。テーマは夫婦間の信頼関係が揺らぐと言うか、特に夫のキャラの余裕がなくなっているのである。
 著者に面白いキャラクターを創造しよう、そのモデルに誰を使おうかという遊び心が無くなって来たのであろう。

 漱石が出世作「猫」を書いたのは、高浜虚子のホトトギスに小説を頼まれていたからである。俳句はそもそも遊び心がなければ面白くない。「人間探求派」の加藤楸邨「鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる」「降る雪が父子に言をもたらしぬ」など深刻な感じが伝わるが、ブラック・ユーモア的でもある。 
 ということで友人の正岡子規に誘われて俳句を詠んでいた漱石は、「猫」や「坊ちゃん」をユーモラスに描いたのだと思う。深刻な社会批評もあるわけだが、一方でユーモアがあるので人気を博した。しかし、それが余裕派とか高踏派などと批判を呼んでいた。漱石もその批判を意識していて、最後の小説「明暗」には小林なる社会主義的色彩の強い人物をエリートである主人公たちの批判者として登場させている。
 「それから」、「門」、「行人」、「こころ」、「道草」、「明暗」など文学的に価値が高いとされる作品は「こころ」以外は読まれることがない。「こころ」も高校あたりの読書感想文用だからでないかと勘繰りたくなる。それぐらい深刻な心理の真剣勝負が最後まで続いている。読み終わってホッとするぐらいのものである。
 「明暗」も「明」がどこにあると言いたくなるし、むしろ「暗夜行路」がふさわしい。

 「三四郎」については、主人公は恋愛や結婚を含めて人生に迷うキャラクターではあるが、一方では、ふざけたキャラの与次郎や隠者的な広田先生など脇役でバランスがとられている。緩急があり、それこそ明暗が背景になって読みやすい。

 特にヒロインだが、「猫」には登場しないが、「坊ちゃん」のマドンナ、「草枕」の那美さん、「三四郎」の里見 美穪子など謎めいていて読み手を引き付ける。
 それに謎めいた言葉も関心をそそる。三四郎のセリフ「ストレイ・シープ」。これは美穪子の描かれた絵を見て言っているのだが、むしろ三四郎自身でないのかと思える。また、別れの場面で三四郎に言う「われは我が咎を知る。わが罪は常に我が前にあり。」(詩篇51篇3節)も、何のことかとなぞ解きをしたくなる。

 これら小説に登場する噂の的になっている女性たちだが、これは当時の帝大はもちろんその受験校である旧制中学校も、当時の社会の最先端であるとともに、間違いなく男社会だからだと思う。つまり、わりとリベラルなわけだが、やはり女性、つまりお嬢様だが、目に触れるところにはいない。
 その時に、マドンナ、那美さん、美穪子は堂々と姿を現して、エリートたちと互角の知力をもって会話の中に入っていけるのである。当然、注目されて、次には誰が嫁に貰うのだろうとなるわけである。

 ということで初期作品にはロマンスの要素がたっぷり入っていたのだが、後期には結婚後の夫婦間の心理的争いや、結婚に至る過程でのライバル関係になった友人関係などが罪の要素となる。男性側だが「わが罪は常に我が前にあり」状態なのである。
 一方、「明暗」のお延を除いて女性陣の存在感は薄い。ほとんど符号状態と判定せねばならない。

 夫婦間で深刻な状態に陥り、離婚に至ることはある。しかし、漱石の小説の場合、離婚に至ることは主人公の場合にはなかった。ということは、常に深刻で心理的な緊張状態だった、とはならないはずなのである。
 余裕派とか高踏派と批判されたから、というのもうなずけない。
 うつ状態が続いていたのかもしれないが、しかし弟子たちの木曜会はあったわけで、その点では「猫」のサロンも健在だった。息抜きのキャラクターだったら弟子たちのなかにもいただろうに。
 まことに残念だと言うしかない。

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