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2018年06月11日13:56

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キリスト教59〜ゲルマン民族のキリスト教への改宗

●ゲルマン民族のキリスト教への改宗

 西ローマ帝国滅亡の前後に、帝国の領土に部族国家を建てたゲルマン民族は、ローマの文化に同化し、キリスト教に改宗していった。ゲルマン民族の多くは、当初異端のアリウス派を信仰した。アリウス派の信仰はゲルマン民族の土俗的信仰と結びついて、特に東ゲルマン系の部族集団に広がった。
 正統と異端の信仰は相容れない。教派の違いが、ローマ人とゲルマン人の結婚を妨げ、両者は混交しなかった。そこに変化が起ったのは、フランク王国の王クローヴィスが、496年にカトリックに改宗したことによる。クローヴィスは、481年にフランク王国を建国して、メロビング朝を始めた。彼の改宗で、ゲルマン民族のカトリック化が進んだ。フランク王国では、ローマ人とゲルマン人が混交し、ギリシャ=ローマ文明とゲルマン民族の文化が融合し、ローマ系の官吏の登用によって安定した国家運営がされた。その後、800年にシャルルマーニュがローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受けた。それによってゲルマン民族の世俗的権力とローマ・カトリック教会の宗教的権威の提携が成立し、ヨーロッパ文明の骨格が完成した。
 ヨーロッパ文明及びそれが北米にも広がった西洋文明は、ギリシャ=ローマ文明、ユダヤ=キリスト教、ゲルマン民族の文化という三つの主要な文化要素を持つ。これらの三要素のうち、ユダヤ=キリスト教が宗教的な中核となったことが、ヨーロッパ文明及び西洋文明の根本的な性格を定めた。
 ゲルマン民族の文化は、ヨーロッパ文明の一つの要素となっている。その文化の特徴は、戦闘性と禁欲性である。
 北方の厳寒の地に生息するゲルマン人は、過酷な環境で生き延びるために、他部族・他民族との戦いに勝って食料と女と財産を奪う戦闘力を鍛えていた。その気性の激しさは、彼らの神話によく表れている。キリスト教に改宗する前、ゲルマン民族は独自の神話を持っていた。その伝承は北欧、特にアイスランドのエッダに多く保存されている。ゲルマンの神々の中心にはヴォータン(オーディン)がいた。ヴォータンは、休むことを知らない放浪者、彷徨の神であり、ここかしこで争いを引き起こし、魔術を用いる神として描かれている。本来は風神、嵐の神だったと考えられる。ヴォータンは、戦闘的な遊牧騎馬民族であり、民族大移動で各地を征服したゲルマン民族の心性を反映した神格ということができ、暴力と闘争性に特徴がある。
 ゲルマン民族は、戦いで勇敢に死ぬことが天国に召し上げられる唯一の道であり、平穏な死を迎えることを屈辱的と考えた。天国とはヴァルハラーと呼ばれるオーディンの館で、ここで戦死者は、昼は武芸に、夜は酒宴に明け暮れると信じた。死を恐れず、戦死こそ救いの道とするゲルマン民族は、その勇猛さでローマ軍を戦慄させた。
 人類文明史において、各地の農耕民族の文明に攻め入る遊牧騎馬民族は、みな戦闘力が高かった。ギリシャ人、ローマ人も、もとは優れた戦闘性と激しい略奪性を以て広汎な地域を支配するに至り、それによって得た繁栄の上に、高度な文化を築いた。彼らに比べて、ゲルマン民族の特徴は、高い戦闘力を維持するために、快楽を抑制し、集団の規律を保つ禁欲主義的な生活をしたことである。タキトゥスが「ストイックで質実剛健な民族」と評した所以である。ゲルマン民族は、ギリシャ=ローマ文明の文化的な遺産を継承しても、享楽的な生活を避け、質実剛健の気風を保った。こうした民族性は、その後、ドイツを中心に西方キリスト教の宗教改革が起こったときに、勤勉や質素倹約が強調されたことにも表れたと見られる。
 戦闘性と禁欲性の文化を持つゲルマン民族は、キリスト教への改宗を通じて、ユダヤ教の思想・文化を間接的に摂取した。ゲルマン民族のキリスト教化は、ヘブライズム(ユダヤ文化)がヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあった。キリスト教を通じてヨーロッパ文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、16世紀以降である。貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した時期からである。ユダヤ教は富を良いものとし、営利欲求を抑制して歯止めをかける教えを持たなかった。ユダヤ教の営利欲求を肯定する教えは、ユダヤ的価値観の根本にあるものの一つである。この価値観は、ゲルマン民族から禁欲性を失わせ、本来の戦闘性は富の拡大の追求と結びつくことになった。ユダヤ的価値観は、ゲルマン民族が中心となって発達させた近代西欧の資本主義と結びついて発展し、キリスト教社会へ、さらに非ユダヤ=キリスト教社会へと広まって、今日に至ることになった。

 次回に続く。
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