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2018年06月09日08:36

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キリスト教58〜西方キリスト教のヨーロッパへの普及

 本稿では、世界的なキリスト教史の中世を476年から1453年までとする。
 中世を前期と後期に分ける。前期は476年のローマ帝国滅亡から1096年のヨーロッパ文明によるイスラーム文明への反攻である十字軍の開始まで、後期は1096年から1453年のイスラーム文明の攻撃による東ローマ帝国滅亡までとする。1453年以後を近代とする。

●西方キリスト教のヨーロッパへの普及

 西ローマ帝国はゲルマンの民族移動によって、476年に滅亡した。その後、ヨーロッパの南東部からアルプスの北に広がる広大な地域において、キリスト教の教会だけが唯一の組織体として、精神的にも実際的にも地域の統合を担うことになった。
 西洋史学では、ギリシャ、ローマの時代を古代とし、4世紀末のゲルマン人の移動から15世紀半ば英仏百年戦争の終結までの時期を中世とする区分がよく使われている。近代については、ルネサンスまたは資本主義化の時期からとすることが多い。だが、ギリシャ=ローマ文明とヨーロッパ文明は、単純に連続しているのではなく、両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は、395年に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、ギリシャ=ローマ文明は滅んだ。ヨーロッパ文明は、この文明を生み出したギリシャ人、ローマ人とは異なる民族であるゲルマン民族が中心となって、生み出した別の文明である。東ローマ帝国は、首都コンスタンティノポリスの旧名にちなんで、ビザンティン帝国ともいう。西ローマ帝国の滅亡後、ビザンティン帝国は、ローマ帝国の正統を維持した。しかし、ここに栄えたギリシャ正教を中核とするビザンティン文明は、1299年に建国されたイスラーム文明のオスマン帝国によって、1453年に滅ぼされた。
 ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡し、ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、ヨーロッパ文明は内陸部であるアルプス以北のヨーロッパ西部で発達し、その地域を中心に発達した。
 西洋史にいう中世は、西方キリスト教の歴史で言えば、ギリシャ=ローマ文明的なキリスト教の時代に対し、ヨーロッパ文明的なキリスト教の時代に当たる。またその思想史では、教父神学からスコラ神学への移行の時代である。またその教会史では、教皇権が確立され、全盛を誇り、同時に腐敗・堕落が進行した時代である。
 なお、私は、ヨーロッパ文明を古代ギリシャ=ローマ文明と区別し、自立した一個の文明としてとらえる時は、文明の開始を481年のフランク王国の建国の時点とし、近代の開始を1453年の英仏百年戦争の終結の時点とする。また、近代の開始までの時代を、前代と呼ぶ。前代は、近代の前の時代との意味である。ヨーロッパ文明の前代は、ほぼ西洋史学における中世と一致する。

●ゲルマン民族がヨーロッパ文明の担い手に

 古代ギリシャ=ローマ文明の滅亡後、新たにヨーロッパ文明の担い手となったのは、ゲルマン民族だった。ゲルマン民族は、紀元前2千年紀中葉には、ヨーロッパの北部、スカンジナヴィア半島中・南部からバルト海・北海の沿岸に多くの部族に別れて、牧畜と農耕を営んでいた。次第に西方や東南方に居住地域を広げ、前1千年紀中葉から前3世紀ごろまでに、西方はオランダからライン川下流域まで、東方はビスワ川流域からドナウ川北岸やドニエプル川下流域までの地域に分布するようになったと見られる。そして、北ゲルマン系、西ゲルマン系、東ゲルマン系の三つの集団を形成するようになった。
 ゲルマン民族とは、ゲルマン語を話した部族及び部族連合をいう。ゲルマン語は、インド=ヨーロッパ語族に属し、現在の英語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語などの共通の祖先となっている。今日のオランダ人・ドイツ人・デンマーク人・スウェーデン人・ノルウェー人・アイスランド人・アングロ=サクソン人等は、ゲルマン民族の諸部族の子孫と考えられる。ゲルマン民族は、人種的には白人・コーカソイドに分類される。長身、ブロンドの髪、碧眼、高い鼻等を身体的な特徴とする。
 ゲルマン民族は、紀元前5世紀頃からローマと接触し、ローマ軍と戦いを繰り返し、帝国領に侵入を繰り返した。前1世紀中葉にガリア(今日のフランス、ベルギー、北イタリア等を指す)のほぼ全域を制圧したカエサルは、『ガリア戦記』にゲルマン民族について書き記した。それによると、当時ゲルマン民族はキヴィタスといわれる小国家を形成していた。そこでは戦争等の重要事は構成員が直接参加する民会で決定された。1世紀末の歴史家タキトゥスは、『ゲルマニア』にゲルマン民族に関することを著し、彼らを「ストイックで質実剛健な民族」と評した。紀元前1世紀から後1世紀ころのゲルマン民族は、定着農耕を営んでいたが、生活において牧畜の占める比重がかなり大きかったと考えられる。
 3世紀ごろには、ゲルマン民族の中に傭兵や小作人としてローマ帝国内に移住する者が現れた。ローマ帝国はローマ市民だけで軍隊を維持できなくなっており、ゲルマン民族の侵攻からの帝国の防衛をゲルマン民族の傭兵に依存するようになった。
 こうした状況において、375年、ゲルマン民族の大移動が起った。地球的な寒冷化が進むなか、北アジアの遊牧騎馬民族フン族が黒海北岸へ、イラン高原の遊牧騎馬民族サルーマート族が東欧へ侵入した。それらの民族に追いやられるようにして、ゲルマン民族が大移動を開始した。
 ゲルマン民族は、ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の衰退という混乱に乗じて、次々とローマ領内に移住し建国した。ゲルマン民族の侵入を受けた西ローマ帝国は、476年に滅亡した。ゲルマン民族は、各地における建国の過程で、軍事指揮権を中核とした王権の強化・確立を進め、政治単位としての新しい部族形成を行った。
 彼らのうち北海沿岸に暮らしていたフランク族は、フランス地域のほぼ全域を支配下に治め、フランク王国を建国した。フランク族によって西に押し出された西ゴート族は、スペイン地域を支配し、西ゴート王国を建国した。ヴァンダル族は、イベリア半島から北アフリカに入り、かつてローマに滅ぼされたカルタゴの故地に建国した。ドイツ北部のアングル族とサクソン族は、ブリテン島に侵入し、七王国を形成した。東ゴート族は、イタリア半島に進出したが、バルト海沿岸から南下してきたランゴバルド族に支配圏を奪われ、またランゴバルド族のロンバルディア王国は、フランク王国に併呑されることになった。こうして、ヨーロッパ全域がゲルマン民族の支配する地域となった。やがて彼らがヨーロッパ文明を発達させるようになった。

 次回に続く。

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