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2018年06月07日10:01

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キリスト教57〜アウグスティヌスによる西方的神学の発展

●アウグスティヌスによる西方的神学の発展

 ギリシャ教父に対して、ラテン語で著述した神学者たちをラテン教父という。ラテン教父のうち「教会の三博士」と呼ばれたのが、アンブロシウス、ヒエロニウス、アウグスティヌスである。
 アンブロシウスは、教会が世俗の国家から独立することを主張し、教会の政治家として優れた能力を発揮した。ヒエロニムスは、ヘブライ語聖書からラテン語訳聖書を作り、それが後のカトリック教会唯一の公認聖書(ウルガタ)のもとになった。アウグスティヌスは、ギリシャ教父によって東方の教会で形成された神学を、西方の教会に適用されるものに作り変えた。彼は、ローマ・キリスト教会最大の教父であり、西方キリスト教における正統的信仰の完成者とされる。
 アウグスティヌスは、10代から肉欲に溺れた放縦な生活を送った。16歳ころマニ教に入信し、9年間とりこになっていた。マニ教は、2世紀にペルシャでマニが始めた宗教で、ゾロアスター教の基本的な考え方である善と悪の二元論に立つ。やがてマニ教に疑問を感ずるようになったアウグスティヌスは、ラテン教父アンブロシウスの説教を聞き、キリスト教に改宗した。
 アウグスティヌスも、近代的な神学者とは異なり、北アフリカ、ヒッポの司教として実務に精励しながら、神学と聖書の研究を行った。また異教・異端との論戦を通じてキリスト教の理解を深めた。
 アウグスティヌスの思想の根幹は、キリスト教的プラトン主義である。彼は、プロティノスの書物を通じて、超越的存在ないし霊的存在への目を啓かれ、自己の内的経験を通じて真理を求める途を取った。真理は神にほかならず、単に事物のイデアではなく、創造と摂理をもって世界を支配するものであり、神の力・愛・正しさであると説く。また精神の自己認識については、知の形式と構造を示すだけでなく、愛と意志をもって存在し働くものであることを説く。世界を悪としてそこから離脱するのではなく、世界を神が創造したものとして理解し、その中に神の働きを見つつ、他者との共同に生きることを求めた。
 アウグスティヌスは、ペラギウス論争で活躍した。5世紀初め、ペラギウスは、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。その結果、ペラギウス主義は、異端として排斥された。自由意志の否定と関係することとして、アウグスティヌスは、パウロの救霊予定説を継承し、教義として整備した。ローマ・カトリック教会は、それをもとに教義として確立した。詳細は、教義の救いと自由意志の項目に書いた。
 410年にローマは西ゴート族の王アラクリスによって略奪された。この軍事的敗北はローマ帝国の政治的・経済的混乱を結果した。そのような時代にあって、アウグスティヌスは『神の国』を書いた。アウグスティヌスは、本書で、歴史は善の意志を持つ天使と人間による「神の国」と、悪の意志を持つ天使と人間による「地上の国」との対立・抗争の過程であり、最後の審判へと向かっているととらえた。そして、「神の国」における神の正義を説くとともに、人々が遍歴の途上にある「地上の国」においては、平和と秩序をもたらすために国家の法には一定の正義があり、それに従わねばならないと説いた。このようにして、アウグスティヌスは、キリスト教神学において初めて歴史を教義の中に位置づけ、歴史における教会の目標を明らかにした。
 ここでプラトンの哲学とアウグスティヌスの神学の決定的な違いを指摘しておきたい。プラトンにおいては、人間の歴史は、天界から地上に墜ち、そこから天界へ帰還する過程であり、人間は自分の力で天界へ帰郷することができた。これに対し、アウグスティヌスにおいては、人間は原罪によって楽園を追放され、神と断絶しているため、自力で天国へ昇ることはできない。イエス=キリストの贖罪と愛が必要であり、神の国は歴史の目標となっている。
 上記のように、2世紀末から5世紀にかけて、ギリシャ教父、ラテン教父らによって正統の教義が整備された。彼らによる教父神学は、中世のスコラ神学のもとになった。
 教義の整備の過程で、古カトリック教会は多くの異端的思想を排斥した。だが、例えば、キリスト教の主流が信奉する三位一体説は、理性による理解を超えた信仰によってのみ成り立つ教義である。その信仰を正統とするものは、教会の権威である。この過程で行われた公会議の決議は、必ずしも決議の内容が真理だからではなく、その時々の宗教的な権威を持つ者の意向が強く反映したものである。決議内容が真に納得のいくものであれば、皆がそれに従うだろうが、そのようにはなっていない。そのため、キリスト教は、古代から多くの教派に分裂し、教議論争がやまないのである。キリスト教に関心を持つ者は、既成の権威に盲従することなく、自ら真理を求め、教義の検証を行うべきだろう。その検証においては、真理の実証の有無を以って判断することが、最も確実である。

 次回に続く。

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