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2018年06月05日09:30

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キリスト教56〜正統と異端

●正統と異端

 ギリシャ哲学の素養のある知識人は、キリスト教に改宗すると、信条の内容を哲学的に解釈しようとした。そうした改宗者が増えることによって、大きな問題となったのが、三位一体論とキリスト論だった。
 三位一体論に対する疑問は、父なる神と子なるイエスの異質論として現れた。アレクサンドリアの司祭アリウスがその代表的な論者だった。
 アリオスは、イエス・キリストは被造物である、最高の被造物であり神に無限に近い存在だが、神ではないとして、神とキリストと異質性を主張した。これに対し、アレクサンドリアの主教アタナシオスは、キリストは神に無限に近いのではなく、神そのものであるとして、神とキリストの同質性を主張した。前者を異質説、後者を同質説という。いわば相似と同一の違いである。
 アタナシオスがイエス・キリストを神と説くのは、次の事情による。キリスト教では人間はすべて罪人だとし、罪が救われるのはキリストを信じことによってだとする。ここで人間を救うか救わないかを決定する権限を持っているのは神だけだとするならば、キリストは神でなくてはならないのである。
 コンスタンティヌス帝の項目に書いたが、こうした教義論争に決着をつけるために、325年に第1回ニカイア公会議が開かれた。この会議で、アリウスの異質説が否定され、アタナシオスの同質論が正統と決定された。キリストの神性と父なる神との本質的同一性を確認したものであり、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという理解である。また、この決定によって、同会議は、父なる神と子なる神であるイエスと聖霊の三位一体を規定した。ここにキリストは人にして神であるとする原ニカイア信条が成立した。
 異端とされたアリウス派は、ローマ領内で布教できなくなったので、北方や東方のゲルマン民族への宣教を行った。ゲルマン民族の王たちにとっては、イエスを神とする正統の教義よりも、イエスの神性を否定するアリウス派の教義は理解しやすかった。だが、ローマ教会は、ゲルマン民族への布教を進め、正統へと改宗させていった。その結果、アリウス派は、やがて消滅していった。
 同質論の採択後、同質説と同類説の論争が起った。同類説は神とキリストの同質を認めながら、生まれざる神と生まれた子なる神は別の存在であることを主張した。これに対し、カッパドキアの三教父が反駁を行った。三教父とは、東ローマ帝国のカッパドキア州で活躍したバシリウス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスの三人である。彼らは、ギリシャ哲学の概念を用いて実体(ウーシア)と位格(ヒュポスタシス)を区別し、実体は本質であるから通性を意味し、個体である三つの位格が一つの本質を共有することは理論的に矛盾しないと主張した。この主張が、神は父・子・聖霊の三つの位格でありながら一つの実体であるという三位一体説の骨格を形成した。
 だが、三位一体説の確立は、容易ではなかった。教義を巡る論争、正統と異端の対立が続くなか、皇帝テシオドシウス1世は、381年にコンスタンティノポリス公会議を開いた。この会議で「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」として三位一体説が前進した。また原ニカイア信条に関しては、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。この改訂版がニカイア・コンスタンティノポリス信条である。
 三位一体論の確立後は、キリスト論が問題となった。「子なる神として神そのものであるキリストが、いかにして同時に人間でありうるか」という問題である。
 当時、ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動による侵攻にさらされ、政治的・経済的混乱が深まっていた。そうした時代に、コンスタンティノポリス総主教のネストリウスは、イエス・キリストは、人間と同じ肉体を持ちながら神であり、人性と神性の二つの本性(ナトゥーラ)を持つと説いた。これを両性論という。ネストリウスは、キリストの人格の統一性を認めながら、人性と神性を明確に区別したうえで、それらが共存しているとした。これに対し、アレクサンドリア総主教のキュリロスは、受肉したイエスは神性のみを持つと説いた。これを単性論という。ネストリウスのように考えるならば、キリストが2人となり、1人の人格ではなくなると批判した。
 キュリロスは総主教の地位を利用してユダヤ人の虐殺を教唆したり、新プラトン主義者の女性を私刑にして群衆に殺させたりする人間だった。皇帝テオドシウス2世により開かれた431年のエフェソス(エペソ)宗教会議で、ネストリウス派は異端と決定された。この会議では、先に着いたキュリロス支持者が会場に鍵をかけて、反対派が入れないようにし、一方的に決議を行った。まともに教義論争をした結論ではない。また、この会議は、全地の代表者が集まった公会議ではなかった。
 皇帝は決議を支持した。だが、教皇は決議を否認した。そうした中で、451年に皇帝マルキアヌスのもと、カルケドン公会議が開催された。この会議では、キリストにおける人性と神性を巡る論争に決着をつけるために、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという主旨が再確認され、単性論が否定され、両性論が正統と決定された。イエス・キリストにおいては唯一の位格しか存在しないが、その一つの位格のなかに人性と神性との二つの本性を備えるとしたものである。そのうえで、両者の関係を、「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」と規定した。これが、カルケドン信条である。
 「混ざらず、変わらず」とは、神性のみを主張したキュリロス派の単性論を否定したものであり、「分かれず、離れず」とは、人性と神性の明確な区分を主張したネストリウス派を批判したものである。それゆえ、カルケドン会議は、ネストリウスの両性論を肯定しながら、両性を明確に区分することを以て異端としたものである。この決議には、教皇レオ1世の強い影響力が働いた。
 カルケドン公会議の結果、単性論も、両性論のネストリウス派も、異端とされた。だが、会議の決議を拒絶する者は、少なくなかった。それらをまとめて、非カルケドン派または東方諸教会という。単性論派は、アルメニア、エチオピア、エジプト、シリアなどの地で今日も存続している。また、エフェソス宗教会議とカルケドン会議で繰り返し否定されたネストリウス派は、ササン朝ペルシャからシナにまで布教活動を行った。
 4世紀前半から5世紀の半ばにかけて、第1回ニカイア公会議からカルケドン公会議に至る諸会議を通じて、キリスト教の主流をなす教義が形成された。今日、ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条は、ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。内容は信条告白の項目で述べたので省略する。

 次回に続く。

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