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2018年05月30日12:19

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キリスト教53〜ローマの国教へ

●ユダヤ教におけるエルサレム神殿の崩壊

 キリスト教徒がローマ帝国で激しい迫害を受けていた時代、ローマ人総督ピラトが悪政の限りを尽くしたため、ユダヤ人は紀元後66年にローマ帝国からの独立を目指して、大反乱を起こした。これを第1次ユダヤ戦争という。だが、反乱は70年に鎮圧され、ローマ軍によってエルサレムの都市と神殿が破壊された。その結果、ユダヤ人は祖国を喪失し、流浪の民となった。
 エルサレム神殿の崩壊でサドカイ派が没落すると、ファリサイ派が90年代にラビたちによるヤムニア会議を開催し、聖書はヘブライ語で書かれた39の文書で構成されることを決定した。当時キリスト教では、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書ができあがっていた。キリスト教徒は、それ以外にギリシャ語訳の七十人訳聖書(旧約聖書)と使徒による手紙等を持っていた。ユダヤ教でユダヤ教の聖典を定める動きが起ったのは、この動きへの対抗ともなっていた。ヤムニア会議は、七十人訳聖書の一部の文書はヘブライ語がもとになっていないとして、外典とした。また、キリスト教徒は、会堂(シナゴーグ)から追放されることになった。この会議によって、キリスト教はユダヤ教と決定的に分離した。
 第1次ユダヤ戦争後、キリスト教ではエルサレム教会の権威が失墜し、ギリシャ語を話す国際的なユダヤ人や非ユダヤ人が活動の中心になっていた。ヤムニア会議の結果、キリスト教がユダヤ教とは別個の宗教となったことにより、一層脱民族的で普遍性の高い宗教へと成長していった。
 ユダヤ人は132年に再び反乱を起こした。これを第2次ユダヤ戦争という。この反乱もまた鎮圧された。その結果、ユダヤ人は、共同体の中心地をガリラヤに移した。一方、キリスト教は、ローマ帝国で迫害を受けながらも信者を増やし続けた。1世紀末から2世紀にかけて、原始キリスト教団は、名実ともに教会と呼ばれるべきものへと成長した。ローマ帝国内の制度的な教会となったものを、古カトリック教会という。「古」とつけるのは、後にローマ・カトリック教会と東方正教会に分かれる前のカトリック教会として区別するためである。

●ローマ帝国での迫害から公認、国教へ

 キリスト教がローマ帝国内に広まっていくと、帝国による迫害を受けた。迫害は、1世紀中葉から4世紀初頭まで断続的に行われ、多くの殉教者が出た。迫害の原因は、宗教的なものである。ローマ帝国はもともと多神教の国家であり、その神々を偶像として否定する唯一神の信仰は、弾圧された。また、キリスト教徒は、東方社会の影響でローマでも行われていた皇帝崇拝に従わなかったから、取締りの対象とされた。
 皇帝ネロの迫害によって、64年に使徒ペトロとパウロが殉教したという説がある。1世紀後半のドミティアーヌス帝は自分を「主にして神」と称した。自分への礼拝を拒否したキリスト教徒を迫害した。キリスト教信者は、たびたび円形競技場でライオンの餌にされた。それでも信者は増え続け、教会は2世紀末にはローマ帝国の全域に組織を広げていたと推測される。
 ディオクレティアヌス帝は、最大の迫害者だった。303年の大迫害は、それまでの迫害が主に聖職者や信者個人に向けられていたのに対し、教会堂の破壊や聖典の焚書によって、キリスト教の撲滅を図るものだった。だが、キリスト教徒は人口の1割に達していたという推計があるほどに増加しており、もはや皇帝の権力を以てしても撲滅はできなかった。
 なぜ、迫害をうけたにも関わらず、キリスト教徒は増え続けたのか。小田垣雅也は著書『キリスト教の歴史』に次のように書いている。「その理由は経済的にも精神的にも不安定であった当時のローマ社会にあって、キリスト教会が人々に安らぎを与えたからである。実際、当時教会は失業者に仕事を斡旋し、多少の基金も持ち、教会の中では社会的身分を越えた交わりがあった。要するに教会は信仰を離れても、病気、失業、投獄、死等に直面している人々の力となったのである」と。
 大迫害に耐えたキリスト教徒は、逆にローマ帝国で公認を獲得するようになった。そのきっかけは、皇帝コンスタンティヌス1世の改宗である。伝説によると、312年にコンスタンティヌスは、人生最大規模の戦いに臨んでいた時に夢を見た。自軍の倍の軍勢と対峙したコンスタンティヌスは、翌日の戦いで自分は死ぬだろうと覚悟した。ところが、その夜、夢に天使が現れ、十字架の印を携えて、「あなたはこの印を用いれば勝利するだろう」と語った。コンスタンティヌスは、すぐさま自軍の盾を十字架の印で飾るように命じた。翌日彼はミルヴィス橋合戦で勝利を収め、ローマ帝国の支配を確かなものとした。そして、キリスト教への血債を償うことを誓ったという。
 もっともコンスタンティヌスの夢に現れたのは、キリスト教的なものではなかったようである。また、彼のキリスト教への改宗は、ずっと後のことで、洗礼を受けたのは、臨終の間際だった。
 ともあれ313年に、コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝はミラノ勅令を出し、それによってキリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。
 当時キリスト教では、ギリシャ哲学を摂取した神学の発展に伴い、教義を巡る争いが激しくなっていた。特にキリストの位置付けをめぐるアリウス派とアタナシオス派の論争は、暴力を伴う争いを招くまでに過激化していた。コンスタンティヌスは、それを解決するために、325年に宗教会議を招集した。全地のキリスト教会の代表者が初めて集まり、公会議を開いた。これが第1回ニカイア公会議である。皇帝がキリスト教に介入したのはこのときが最初である。コンスタンティヌスの意図は、ローマ帝国の求心力低下という課題解決のためにキリスト教の勢力を利用することにあった。公会議の時点で、コンスタンティヌスはキリスト教徒ではなかった。彼が洗礼を受けたのは、臨終の間際である。なお、ニカイア会議の内容については、後に項目を改めて書く。
 コンスタンティヌス帝は、330年に帝国の首都をトルコ北西部に移し、都市名をビュザンティウムから自分の名にちなんだコンスタンティノポリス(現イスタンブール)と改称した。
 コンスタンティヌスの後を継いだユリアヌスは、多神教ないし太陽神信仰に傾き、キリスト教への優遇政策を廃止した。キリスト教側からは「背教者」と呼ばれる。
 その後、テオドシウス1世はキリスト教徒を保護し、380年にローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止した。キリスト教国家となったローマ帝国において、ユダヤ教徒の共同体は弾圧された。
 ところで、初期キリスト教徒たちはユダヤ教徒のように土曜日を安息日としていたが、ユダヤ教との対立の中で、徐々にキリストの復活した日とされる日曜日を主の日、主日とし、祝日とするようになった。
 主日を日曜日とも呼ぶようになったのは、正式には4世紀からである。321年にコンスタンティヌス帝が日曜日強制休業令を強制し、364年にラオディキア教会会議によって日曜日の安息日化が正式に決定された。それまでローマ帝国では、日曜日は太陽神の日だった。380年にローマ帝国がキリスト教を国教としたとき、キリスト教ではキリストを光とするところから、真の太陽はキリストであるとして、日曜日を主キリストの日としたのである。
 テシオドシウス1世は、395年に没した。それをきかっけに、ローマ帝国は東西に二分された。これに伴ってキリスト教会も東西に二分された。
 西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動や帝位を巡る内紛などで、没落の道を進んだ。帝国の政治的・経済的混乱の中でキリスト教会は消滅することなく存続し、次の時代を準備した。

 次回に続く。
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