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2018年05月28日08:53

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キリスト教52〜パウロの活躍と使徒の時代の終り

●パウロの活躍と使徒の時代の終り

 ローマ帝国で迫害が始まってからも、キリスト教徒は宣教を広げた。この宣教の拡大は、パウロの活躍によるところが大きい。
 パウロについては、概要の使徒の項目に書いたが、もとはユダヤ教のファリサイ派に属し、その博士としてキリスト教徒を迫害していた。しかし、ある時、復活したイエスが現れ、「目からうろこが落ちる」体験をしてから、熱烈なキリスト教伝道者となった。ユダヤ人だけでなく、多くの非ユダヤ人に福音を伝えた。小アジア、マケドニア、ギリシャ等に3回の伝道旅行をして、いわゆる異邦人教会を多く設立した。またキリスト教の教義の確立に大きな貢献をした。
 パウロの布教方針は、エルサレム教会の方針と対立した。エルサレム教会の最高指導者ペトロは他の使徒とともに逮捕され、代わりに指導者になったのが、イエスの異母兄または従兄などと考えられている小ヤコブだった。
 長老ヤコブを中心とするエルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活するユダヤ人の信仰共同体的な集団であり、エルサレムを離れた布教活動には積極的でなかったと見られる。しかし、パレスチナ以外の各地に離散したギリシャ語を話す国際的なユダヤ人キリスト教徒が積極的な伝道を行い、異邦人の信者が増加していった。彼らの拠点の一つとしてシリアのアンティオキアに教会が設立されて、一定の力を持つようになった。パウロはアンティオキア教会を活動拠点としたが、この教会では、布教のために異邦人の文化への適合や慣習の利用を行った。その一例が、ペルシャの太陽神を崇拝するミトラ教による冬至の祭礼クリスマスの取入れである。ミトラ教は、キリスト教が広まる前、ローマ帝国で大流行した。その祭礼を取り込んだのである。
 パウロとヤコブは、信仰内容やイエスに関する捉え方、洗礼の概念などを巡って、互いに譲らずに対立した。ヤコブは、いわばキリスト教イエス派が持っていたヘブライ主義を保ち、ユダヤ教の伝統を守ろうとした。これに対し、パウロはユダヤ教の民族文化を脱した普遍的な宗教を目指していた。
 ヤコブは、紀元49年ころエルサレムで使徒会議を主宰し、エルサレム教会とアンティオキア教会の対立を緩和する案を示めして解決を図った。彼が示したのは、異邦人改宗者は「絞殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼等の他の律法の遵守は免除されるという案である。
 この案で合意が成立すると、エルサレム教会とアンティオキア教会は別の管区を分け持ち、互いに干渉や越権行為を行わないこととした。その後設置された管区でもそれぞれの独立性と自治性を尊重することが原則となった。
 これをパウロの側に立って見れば、パウロはキリスト教を脱ユダヤ化し、異民族にも広く受け入れられる普遍性のある宗教に発展させることに成功したということになる。これは、世界宗教となったキリスト教において、パウロの大きな功績である。
 またパウロの別の功績は、内面と外面の二分を行ったことである。キリスト教は、ローマ帝国の法律に反するとの理由で大弾圧を被った。そこで生き延びるためにパウロは、内心と行動を区別し、キリスト教徒は、内面において堅くイエス・キリストを信じていれば、外面はローマ帝国の市民として帝国の規律に従ってよいとした。心の中でイエスの教えを信じていれば、外面的にはそれに反する行動をとっても許されるということである。こうした内外二分法によって、キリスト教徒は信仰を失うことなく、外面的行動を変え、ローマ帝国で生き延びることができることができた。もし内心と行動を一致させなければならないとしたら、キリスト教は弾圧によって絶滅していただろう。その点では、パウロの最大の功績と言えるだろう。
 パウロ自身は、ローマ帝国の迫害を受け、「不安を与える新奇な事を教唆した者」として斬首刑に処せられた。その時期は早くて62年、遅くとも64年とされる。ヤコブもまた62年に処刑されて殉教した。
 彼らと同じころ使徒筆頭者のペトロもまた殉教した。ペトロは、イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ書16章18〜19節)と言ったとして、キリスト教会の権威の起源とされている。ペトロは皇帝ネロの迫害により、64年に殉教したとされる。64年から67年の間という説もある。ローマで死んだとされ、ペトロ殉教の地にあるローマ教会が各地の教会のうち中心的な教会とされた。ただし、ペトロがローマに来たかどうかは確証されていない。
 イエスの直弟子である使徒や彼らと同世代のパウロらの死によって、キリスト教の歴史の一つの段階が終わった。イエスの使徒が原始キリスト教団を設立して伝道活動を開始してから、彼らの死までを厳密な意味での原始キリスト教団の時代ということができる。その後は、福音書を中心とする新約聖書という書物に基づく信仰活動を行う時代となる。
 ローマ帝国において制度的に教会が整備されるのは、1世紀末から2世紀にかけてだった。その時に成立した教会を古カトリック教会という。そこで、広い意味での原始キリスト教団の時代は、古カトリック教会の成立までとすることができる。古カトリック教会は、ローマ帝国の東西分裂によって東西の教会に分かれるが、最終的に1054年に分裂した。それゆえ、古カトリック時代は、この東西教会の最終分裂までということになる。この間、より細かく見て、使徒の世代以後の時代を、教父時代と呼ぶことができる。教父時代は、後に述べる教父が活躍した時代で、1世紀後半から7〜8世紀までを指すものである。

 次回に続く。
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