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2018年05月24日09:25

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キリスト教50〜イエス出現の時代のユダヤ教の宗派

●イエス出現の時代のユダヤ教の宗派

 紀元前63年、ユダヤ人共同体はローマ帝国の属領となった。紀元前37年から紀元後4年にかけては、ローマの属王ヘロデの過酷な支配を受けた。
 ナザレのイエスが出現した時代のユダヤ教には、主に三つの宗派があった。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派である。
 サドカイ派は、祭司を中心にした貴族的な集団だった。単なる宗派ではなく、名門の家系による一つの特権階級だった。現状維持派であり、慣例を墨守した。セレウコス朝シリアの支配を受けた時代から、ヘレニズムに妥協的な態度を取り、ローマ帝国の権力に対する態度も同様だった
 サドカイ派は、当時イスラエルを統治していたユダヤ人のヘロデ大王を支持し、ローマの支配を背景としてヘロデ王朝がユダヤを統治することを望む人々の中心となっていた。
 ファリサイ派(パリサイ派とも書く)は、律法に通じ、これを忠実に守ろうとする宗派である。イエスの時代の後のことになるが、紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿を破壊された後も、ユダヤ教が存続できたのは、ファリサイ派による。彼らは、儀礼の他にシナゴーグ(会堂)を中心として宗教生活を営むという独自の形態を始め、広めたからである。ユダヤ教は神殿を失い、サドカイ派が消滅した後は、ファリサイ主義とほぼ等しいものとなった。
 文明学者アーノルド・トインビーは、劣勢な文明が優勢な文明の侵略を受けた時に、優勢な外来文明に対する態度には、2つの正反対の態度があると指摘した。その典型をヘレニズム文明とユダヤ文明の出会いに見ている。トインビーは、外来文明の優秀なことを客観的に認め、それを積極的に受容しながら自らの劣勢な文明を発展させようとする者を、ヘロデ主義者と呼んだ。また、優勢な外来文明に対してあくまでも伝統文化に固執し、排外的なエスニシズム(民族主義)を取る者を、ゼロト主義者と呼んだ。ヘロデ主義の名はローマ帝国支配下のユダヤ人のヘロデ大王に基づき、ゼロト主義はファリサイ派の中でヘレニズムに反対した熱心党に由来する。ヘロデ主義とゼロト主義は、どの文明同士の「挑戦と応戦」においても現われうる二つの思潮である。先進外来文明に順応する現実的な路線か、固有の文明を保守して抵抗する路線かの違いである。
 ゼロト主義の起源は、BC167年のマカバイ戦争に遡る。ユダ王国崩壊後500年以上にわたって被支配の状態に置かれたユダヤ人の多くは、自らの国家の建国を諦め、被支配下で信仰と民族文化を保つために妥協的な考えを取った。その一方、民族独立を切望する人々もおり、その中で暴力的な手段を以って目的を遂行しようとしたのが、ゼロト主義者である。イエスの時代にもゼロト主義者がおり、新約聖書に「熱心党のシモン」の名が記されている。
 サドカイ派、ファリサイ派に次ぐ第3の宗派が、エッセネ派である。彼らは、動物犠牲をめぐる対立によってエルサレムの神殿から放逐され、荒野で厳格な共同生活を営んだ。1947年に発見された死海文書は、エッセネ派の一派であるクムラン教団の文書である。
 死海文書は、紀元より少し前の文書である。文書中のハバスク書の注解書によれば、その宗派の長である「義の教師」は、紀元前1世紀半ば頃、エルサレムの祭司たちから迫害を受け、死刑に処された。だが、弟子たちは彼が昇天したと信じ、彼が輝かしい復讐のために、世の終わりに再来することを堅く期待した。そして「義の教師」への信仰を、救われて神の国に近づくための条件としていたと見られる。こうした信仰は、キリスト教に通じるものであり、その原型とも考えられる。
 エッセネ派に限らずイエスが出現する前、パレスチナではメシア出現への待望が全土に広がっていた。イエスが誕生したのは、こうしたメシア待望が高揚していた時代においてだった。

 次回に続く。

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