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2018年05月01日08:50

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キリスト教40〜信徒の務め、修行

●信徒の務め

 キリスト教では、総じて信徒の務めとして、日々祈ること、毎日聖書を読むこと、日曜日には礼拝に行くこと、教会における集会や奉仕活動に参加すること、教会の維持・活動のために献金をすることなどが挙げられよう。
 最大多数派のローマ・カトリック教会では、最低限の義務を定めている。伝統的な「教会のおきて」に、次のように定めている。

(1)主日を守るべき祭日にミサにあずかり、肉体労働を休むこと。
(2)毎年少なくとも一度罪を告白すること。
(3)少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。
(4)教会が定めた大斎と小斎の日を守ること。
(5)教会の維持費を負担すること。

 (1)における主日とは、イエスが復活した日曜日のことである。(2)に関して、カトリック教会では、細かく罪の規程を設けている。ただし、後にサクラメントの項目で述べる赦しの秘跡を受けることで、すべて赦される。規程にないものは、とがめられない。(3)の聖体の秘跡についても、サクラメントの項目で述べる。(4)の大斎と小斎とは、教会で定められた特定日における食事制限である。(5)について、プロテスタント教会の中には収入の10分の1を献金することを信者に義務づけているところが少なくないが、カトリック教会にはこうした義務がない。
 プロテスタントの中には、非常に規則が緩やかで、ほとんど個人の自由に委ねられている教派もある。特に世俗化したリベラルな教派では、洗礼さえ受ければ、祈り、聖書の学習、礼拝等を行わなくても、責められることがない。逆に一番規則が厳しいのは、プロテスタントの厳格で保守的な教派である。米国中西部やカナダのオンタリオ州等にいるアーミッシュは、現代文明を否定して開拓時代の生活を守り続けている。
 イスラーム教には、信者が宗教的義務として行うべきこととして六信五行があり、イスラーム教徒はそれらの義務を果たすよう厳しく定められている。それに比べると、キリスト教徒の義務は、一般にかなり緩やかである。外面的な行動よりも、内面的な心のあり方を重視するからであり、また、個人の自発性を重んじる傾向がある。

●修行

 仏教は、仏(ブッダ、目覚めた者)が説いた教えであると同時に、仏になるための教えである。これに対し、キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。キリスト教の信仰は、イエス・キリストによる救いを求める信仰である。
 キリスト教において神に救われるために修行が必要かどうかというのは、教義上の大問題である。救済に関して人間の自由意志を認めるかどうかに関わるからである。そのことについては、教義の項目に詳しく書いた。
 ローマ・カトリック教会では、ペラギウス論争を通じて、自由意思を認める考え方は異端とされた。だが、イエスの教えを徹底的に実行しようとすれば、世俗社会から離脱して、修道の生活に入り、一生を修業に捧げるしかないだろう。3世紀に聖アントニウスがエジプトで修道生活を行ったのが、修道院のはじめとされる。修道院は、東方で発達した後、西方でも盛んになった。教父アウグスティヌスは、「貞潔・清貧・従順」を理念として、修道院の規則を定めた。
 中世になると、修道院が勢力を増していき、修行を含む善行の積み重ねによって救済に至るという考え方が、段々優勢になっていった。トマス・アクィナスは、救済を得るには人間の努力や善行が必要であるとした。神の恩恵を得て回心する過程において、信仰だけではなく、人間の努力や行為が意味を持つ。また、努力に応じてより高い水準に至るという考え方である。自由意志を持つ人間は、ただ放っておいても倫理的な行動するわけではない。そこで、不断の指導と援助を与えるものが必要となる。その指導と援助を行うものが、教会である、とトマスは説く。このトマスの教学理論によって、カトリック教会は、救いをもたらす秘蹟の権威の強化、教会や修道院の規範の厳格化を進めた。その結果、カトリック教会は絶対的な権威と権力を持つに至ったが、それによって腐敗・堕落の道を下って行ったのである。
 ローマ・カトリック教会を厳しく批判したルター、カルヴァンは、救いにおける人間の自由意思を認めない。この考え方に立てば、修行や善行には意味がない。そうした人間の努力は、救いと滅びを決める神の意思には何ら影響しないからである。その一方、現実社会で職業を召命とし、労働に励むことが自分が救いに選ばれていることの確信になるという世俗内禁欲の思想を説いた。職業的労働を道徳的修行とする考え方である。勤勉に働き、倹約に努めれば、富が蓄積される。そのため、富を得たことによる堕落が始まり、営利追求を肯定するユダヤ的価値観の浸透を許すことになった。
 キリスト教徒には、基本的には修行は必要ないと考えるのが主流の考え方であるが、人間の自由意思による努力・善行を全く否定することは、教会の強い権威によって信者を統治するか、または信者の世俗化、さらにキリスト教離れを招くかの両極端に結果するだろう。

●修行で目指すもの

 キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。イエスは、どこまでもその教えに従うべき対象である。だが、キリスト教の中にも、神と人間の合一を目指す考え方がある。神秘主義に見られるものである。自分がキリストの花嫁となって合体するといった体験もある。キリスト教神秘主義の思想・活動は、熱烈な祈りや厳しい修行などによって、神人合一の心境への到達を目指す。
 東方正教会では、イエスは人類の原罪を購ってくれた救世主というより、死を克服して復活したことで人類に死を克服することを示してくれた指導者ということが強調される。この場合、イエスは人間が目指すべき目標であり、神を信じる者は修行によって神との合一を目指す生活が理想となる。
 仏教は、仏陀(真理に目覚めた者)が説いた教えであると同時に、仏になるための教えである。釈迦は、イエス・キリストのような仲介者ではなく、修行者の目標である。イエス・キリストは唯一人の特別の存在だが、仏陀は誰もが成り得る。釈迦牟尼仏陀は、人類史上初めての仏陀でも、最後の仏陀でもないとされる。これは、ヒンドゥー教の梵我一如の考え方に由来するものである。ヒンドゥー教では、誰もが梵我一如を目指し得るし、また人間は人生においてその道を歩むべきものとされている。仏教は、この思想を理論的に説いている。
 人間には、誰にも神性または仏性と呼ばれるような本質がある。人性を生きている間に、その本質に気づき、その本質が実現するように努めるのが、人間の生きるべき道である。この本質が実現することを神性開顕、仏性開顕という。
 神性開顕、仏性開顕の努力は、広大無辺の宇宙の中である限られた空間に局在し、ある限られた時間を生来ている人間が、自分の根底において、宇宙の本源とつながっていることを自覚し、本来の全体性を回復しようとする努力である。本来の全体性を神ととらえるならば、人間の局所性・有限性について、人間は、神の一分子であり、神の一細胞であるということができる。大宇宙に対する小宇宙ということも出来る。単なる部分ではなく、その中に全体を映し、宿しているような部分である。
 しかし、キリスト教は、イエス・キリストという神と人間を取り結ぶ仲介者を崇拝することで成り立つ宗教である。イエス・キリストを通じてのみ、人間は、原罪と自罪を許され、神と結びつくことができるとする。それゆえ、神秘主義者が、イエスを介さずに神と直接合一することを求めるならば、イエス・キリストの存在が無意味になってしまう。ここに、キリスト教神秘主義の教義上の特徴がある。キリスト教における修行も、あくまでイエス・キリストを仲介者とする限りでの神人合一を目指すものとなる。

 次回に続く。

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