mixiユーザー(id:525191)

2018年03月29日08:50

105 view

キリスト教27〜イエスは再臨するか

●最後の審判

 キリスト教では、神の意思に反することが罪である。これはユダヤ教から継承した考え方である。ユダヤ教における罪とは、具体的には、十戒を代表とする律法に定められた命令への違反である。特に重罪とされるのが、偶像礼拝、姦淫、殺人、中傷の四つである。
 ユダヤ教は、人間は罪を犯しやすい弱い存在であるとする。憐れみ深い神は、悔い改めたならば、罪人を必ず許してくれる。しかし、正義の実現を目ざす神は、各人の責任を死後にも追及する。そこで、この世の終りに、神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後に新しい世界が始まると、すべての死者はよみがえり、生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果、罪人は永遠の滅びに落とされ、義人は永遠の生命を受ける。義人とは、罪なき人である。新しい世界は死後の来世としての天国ではなく、地上に建設される神の王国である。義人は霊界ではなく、現世において永遠の生命を与えられる。単なる心霊的存在ではなく同時に身体的存在として、地上に永遠に生きると考えられている。
 キリスト教は、基本的にユダヤ教の罪と最後の審判の考え方を継承している。キリスト教でも、ユダヤ教と同じく、魂が来世に行く一方、肉体は墓の中で腐敗する。来世での死後の状態は一時的なものとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。復活は、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。そして天国に行った者も、地獄に行った者も、世の終わりによみがえらせられ、最後の審判を受ける。その結果、はじめて永遠の生命を与えられるかどうかが決まる。個人の死の時の裁きが個人個人の私審判であるのに対し、最後の審判は世の終わりにおける人類全体の公審判である。それによって、永遠の生命を与えられる者と永遠の死に置かれる者に分けられるとする。死後は、二つの段階を持っているわけである。
 ユダヤ教との最大の違いは、世の終わりに来る救世主はイエスであり、再臨するイエスが最後の審判を行うとする点である。イエス・キリストによって救いに選ばれた者は、あらためて永遠の生命を与えられる。選ばれなかった者は、永遠の死に置かれる。死後私審判で天国に行った者が必ずしも、最後の審判で永遠の生命を与えられるとは限らない。永遠の死に置かれる可能性はある。
 紀元30年ごろにイエスが起こした奇跡は、すでに時が来て「神の国」が到来したことのしるしとされる。しかし、神の国はまだ完全ではない。イエスが開いた教会の完成によって、神の国が完成する。その時は、世の終わりにおいてである。この神の国の完成が天国の実現とされる。それゆえ、完成された神の国は、地上に実現する天国すなわち地上天国である。
 個々の魂が死後ただちに行く霊界の天国は一時的なものであり、世の終わりに肉体を持って復活し、永遠の生命を与えられた者が暮らす地上天国こそ永遠だということになる。最終目標は霊界の天国ではなく、地上の天国である。死後行く霊界の天国よりも、将来の地上天国の方が理想的な場所とされている。
 こうした考え方は、救済の時を現在ではなく、将来に置くものである。死ねば天国に行けると説く一方、世の終わりに最後の審判があり、永遠の生命を得るか、永遠の死に置かれるかが決まるとし、真の救済を未来に置いている。これは、現世においては救われないが、来世において、または将来においては救われるという教えである。

●イエスは再臨するか

 イエスは、人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)と説き、世の終わり、最後の審判の時が迫っているので、悔い改めるよう勧めた。だが、イエスはわずか2年ほどの伝道活動の後に、磔刑に処された。彼の復活を信じる使徒たちは、世の終わりにイエス・キリストが再び地上に来て、神とともに全人類を裁く最後の審判を行うという教えを広げた。
 世の終わりには、前兆が現れる。戦争や飢饉、地震、迫害などであり、偽キリスト、偽預言者が横行して人々を惑わせるという。そのあとで本物のキリストが雲に乗って来臨し、彼を信じてその教えを実践した者を救い、そうしなかった者を滅ぼすという。福音書は、イエスが世の終わるに再び自分が来ると言ったと伝えている。肉体を持ったイエスが救世主として帰ってくるというのである。
 例えば、『マタイによる福音書』には、次のように記されている。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ書24章30節)。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ書24章36節〜39節)
 イエスの教えに目覚めたパウロは、紀元後1世紀半ば、イエス・キリストが間もなく再臨し、最後の審判が行われ、神の国が実現すると信じた。極めて切迫した将来の認識である。一刻も早く悔い改めなければならない。悔い改める前に最後の審判が行われたら、取り返しがつかない。即刻悔い改め、他人も悔い改めさせなければならない。そういう切迫感、使命感がパウロを突き動かしていたと思われる。パウロは火事場のたとえを用いる。今は火事場にあるようなものである。火事場では必死になって、逃げ道を探さねばならない。他のことをしたり、考えたりしている場合ではない。このような非常事態の認識に立てば、現世的な欲望は妨げでしかない。こうした切迫感、使命感がキリスト教的な禁欲のもとにある。
 パウロは、熱心にキリスト教の伝道をしたが、迫害に遭って紀元62〜64年の間に殉教した。彼の時代には、「世の終わり」は到来しなかった。以後、何度も「世の終わり」の到来が説かれつつ、2000年近くの時間が過ぎている。世代にすれば、60世代以上の人間が生き、死んで来た。第1次世界大戦においては、人類史上初めての世界規模の戦争がヨーロッパを中心に4年も続いた。キリスト教徒同士が数百万人も殺し合った。イエス・キリストの再臨を熱望するキリスト教徒もいたが、イエスは現れなかった。「神の沈黙」は、キリスト教徒に失望や疑念をもたらした。さらに、再びヨーロッパから第2次世界大戦が起こった。大戦の最後には、核爆弾が使用された。だが、イエスは再臨していない。
 キリスト教は、今日もキリストの再臨と最後の審判の教えを説いている。そして、最後の審判で救われるための条件は、イエス・キリストを信じることであり、イエス・キリストを信じさえすれば救われると説いている。
 イエスが実際に何を語ったかは、確かめることができない。福音書は弟子たちが書いた記録であって、イエスが自ら書いたものではない。当然、録音も録画もない。福音書がイエスの言行を正確に記録しているかどうかを確かめることはできない。
 キリスト教は、それを信じない者にとっては、荒唐無稽なことを説く宗教である。キリスト教の荒唐無稽な教義の中でも、イエス自身の再臨はひときわ信じがたい教えである。いったいイエスは、キリスト教徒の多くが信じているように、最後の審判を行うために再臨するのか。それともイエスの再臨は、使徒や信徒が作り上げた荒唐無稽な話の一環なのか。21世紀の人類は、その答えを待っている。
 私見によれば、イエスの出現の時点では、まだ時が来ていなかったので、彼の犠牲によって神と人間が結びついたとはいえない。ただ将来、救われる時が来ると予言したのみである。それが、長い歴史の果てに、時来たって、ユダヤ=キリスト教では原罪ととらえられた悪因縁を消滅することが、初めて可能になっている。その証は産みの苦しみを伴う出産ではなく、自然分娩による無痛安産が実現していること。また、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない大安楽往生が実現していることなどによって、確認することができる。
 それゆえ、イエスが語ったことの真意は、イエス自身ではない真の救世主が将来現れることを予言したものだったと考えることができる。そのように考える方が、合理的である。またキリスト教徒以外にも広く受け入れられ、人類に希望を与えるだろう。

 次回に続く。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する