●教義の形成
宗教は、それぞれ独自の教義を持つ。教義は、主に言語によって説かれるが、象徴によって暗示されたり、儀式によって表現される場合もある。
古代から続く宗教には、神話の人間観・世界観に基づき、独自の教義を発達させたものが多い。ユダヤ教はその一つである。
ユダヤ教は特定の創唱者を持たない自然宗教である。幾世代もの間に様々な精神的指導者の説いたことが、部族や民族の知恵として蓄積されて教義が形成された。教義は、宗教的な共同体である民族や教団が存続し、発達していくにつれて、制度的に明確に規定されていき、信仰や生活の規範として確立された。
ユダヤ教では、民族の神話がそのまま教義の一部となっており、それに加えて先祖や預言者などの精神的指導者たちの言葉が教説となり、教義が形成・確立された。
これに対し、キリスト教は、ナザレのイエスを創唱者とする創唱宗教である。創唱者イエスの説いた思想が教説となり、教説がもとになって教義が形成された。イエスの教説は、イエスがその場その場で説いた言葉やその時その時に行った行為の記憶や記録を主とする。そのため、十分に体系化されたものではない。その創唱者の教説を弟子が体系化・組織化し、キリスト教の教義となった。
●教義の内容
キリスト教の教義の核心は、イエスをキリスト(救世主)とすることである。ユダヤ教は、イエスをメシアと認めない。キリスト教では、神は人間を愛するゆえに独り子イエスを遣わし、神の子であるイエスの死は原罪を贖った。イエスの犠牲によって人間は、再び神と結び付いた。イエスをキリストと信じる者は罪の赦しを得て永遠の生命に入る。神にいたる道は一つでイエスによるのみであると説く。これが、キリスト教の教義の要約である。
キリスト教の教義には、さらに宗教一般がそうであるように、人間観・世界観・実在観が含まれている。すなわち、人間とは何か、世界とは何か、究極的な実在とは何かという問いへの答えとなる考え方である。それらの人間観、世界観、実在観は、ユダヤ教の考え方に基づいている。
ユダヤ教の教義は、聖書に表現されている。この啓典に、人間観・世界観・実在観が示されており、主に『創世記』に描かれている。『創世記』はユダヤ民族の神話ないし神話に基づく物語であり、ユダヤ教の教義は神話に目指したものである。聖書の続く諸書には、先祖や預言者などの精神的指導者たちによる教説が記されており、それらが教義の内容を構成している。
キリスト教は、こうしたユダヤ教の教義を継承し、これにイエスに基づく独自の教義が加えられている。その教義の一部は、ユダヤ教の教義に対する新たな解釈を示すものであり、また部はユダヤ教にはない新たな教義である。その点について、実在観、世界観、人間観の順に見ていきたい。
●実在観〜実在は唯一の神
キリスト教の実在観は、唯一の神を実在とするものである。その神は、ユダヤ教の神と共通する。神ヤーウェは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(『出エジプト記』3章14節)と述べる。ここで「ある」とは、真の実在であることを示唆する。「ある」という神の規定は、神を有(存在)とし、有(存在)を神とする西洋思想の元になっている。
ユダヤ教は、一元的なものが多様に現れているとし、一元的なもののみを実在とする。それがセム系一神教の基本的な論理となっている。キリスト教は、この論理を継承している。一に対する多としての万物は、神が無から創造したものとするので、神そのものではない。神と万物を一体とらえる汎神論とは異なる。神は創造主であり、万物は神の被造物である。被造物のうち人間のみが神の似像として、特別の存在である。ただし、人間は神の一部ではない。実在は、唯一の神のみである。
こうしたユダヤ教の考え方に加えて、キリスト教は独自の実在観を持つ。キリスト教の主な教派は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊の三位一体を信奉する。神の実体(希語ウーシア、羅語スブスタンティア)は一つであり、三つの位格(希語ヒュポスタシス、羅語ペルソナ)を持つとする。また三つの位格は同格とする。このことがキリスト教の実在観に、世界の諸宗教の中でも特に複雑な様相を与えている。キリスト教では、三位一体は人知ではとらえられず、神の定めたものとしてただ信仰するのみと教えられている。
キリスト教の実在観がさらに複雑なのは、イエスを主とし神としていることである。それゆえ、イエスの存在・活動・教え等がそのまま働きとされる。すなわち、イエスは神の独り子で、神が遣わした救世主であり、マリアの処女懐胎で誕生し、数々の奇跡を起こし、磔刑で死んだ後、3日後に復活し、弟子たちの前に何度も現れたというイエスの物語がそのまま実在の働きとされる。ユダヤ教では、このような実在観はあり得ない。
次回に続く。
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