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2017年06月20日10:04

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カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」早川書房2001

1枚目 上海の租界1920年 ウィキから
2枚目 河は呼んでいる 1957年
3枚目 ドクトル・ジバゴ 1965年 オマー・シャリフとジュリー・クリスティ
         いずれもネットから

 はてさて不思議な物語だった。まるで悪夢の中を進むような。そういえば、エミリ・ブロンテ「嵐が丘」も終わってほっとしたものであった。それに、この本で著者は何が言いたいのか、それが分からない。ということで、ああでもない、こうでもないとやっていたが、図書館に返す期限もこれあり、一つ分かったと思えることもありで、簡単な感想文を書いておきたい。

 語り手のパフィン・バンクスは1923年夏にケンブリッジ大学を卒業した(つまり、1900年頃の生まれ)。親族は伯母だけだったが、ロンドンに出て友人の紹介で社交界に入り、職業を得るための伝手となる有力者を探し始めた。彼は、子どもの頃から私立探偵になりたかったのである。
 彼は、10歳まで両親と共に父の勤務先の上海にいた。ところが、父が行方不明になり、続いて母もいなくなったことで、フィリップおじさん(家族同然だったが血縁ではない)の手で、ただ一人の親戚のいるイギリスへ帰国して教育を受けるように手配されたのである。
 社交界では、花形として注目されるミス・サラ・ヘミングズに出会うのであるが、彼女の関心を引くことはなく、私立探偵として名の売れだした数年後、自己紹介の形であいさつしたのであるが、無視されてしまった。この屈辱感は生涯続いたらしい。

 サラが彼に近づいたのは、政治家として有名なサー・セシルが出席するパーティへ連れて行ってもらいたい時だった。ところがバンクスは数年前の屈辱を思い出して断ってしまう。しかし、サラは持ち前の強引さで飛び込みでパーティに入り、サー・セシルと親しくなり、ついに結婚して上海に渡る。彼女は一流の人物といっしょに生きていたい人なのである。

 探偵になってから、かっての上海の新聞を調べていた時、アヘン取引の中心人物ワン・クーの写真を見つけた。印象的な顔と容姿は見たことがある。自分の家にやって来たのだ。父の失踪から二、三週間後のことだった。フィリップおじさんが親しそうに挨拶して、家に招き入れた。

 あの頃、母はアヘン撲滅運動をしていた。ところが、父の会社がアヘン取引をしているらしく、時々、父と母は言い争いをしている様子だった。両親が行方不明になったのは、このアヘン取引にからんでのことと考えられていた。

 1935年頃、バンクスはカナダから養女を貰っていた。ジェニファー(1927年生まれ)である。
 1937年、彼は、いくつかの手がかりをつかんで、上海で両親の行く方を探すことにした。サラとサー・セシルは前年に上海に渡っていたが、セシルは事業の行き詰まりで意欲をなくし、サラは彼から逃げようとしていた。マカオへ連れて行く約束をしたのだが、両親の探索に手間取って果たせなかった。サラとはいつもそうなるのだが。

 当時、イエロー・スネイクが頻繁に殺人事件を起こしていた。共産党が裏切り者を殺しているらしいのである。
 バンクスは、かって両親が行方不明になった時に捜査してくれたクン警部と再会した。すでに引退して、しかも落ちぶれていたが、実は、幽閉されているらしい家の中の一つが捜索できなかったことを教えてくれたのである。
彼は、地元を知る人物の案内でそこへ接近したのだが、その一画が日本軍と国民政府軍などとの戦場になっていて、もう少しのところで引き返さざるを得なくなった。

 一方、警察は、イエロー・スネイクの関係者のところにバンクスを案内してくれた。既に予感していたのだが、その関係者とはフィリップおじさんだった。
 彼は、すべてを告白した。父は別の女性と駆け落ちして、すでに死んでいる。自分はミセス・バンクスの再婚相手になりたかったのだが、無視されてアヘン王のワン・クーに売り渡した。お前の学資や生活費を貰う条件だった。私がイギリスへ送っていたのだ。おまえのロンドン社交界での地位はワン・クーが作ったのだ。お前の母はその犠牲だった。
 彼は最初は国民政府に協力していたのだが、ひそかに共産党側に寝返って、二重スパイのように、かっての仲間を殺させていたのである。

 1958年になって、パフィンはついに母の所在を発見した。香港のキリスト教施設に保護されていたのである。会いに行ったのだが、母はぼけていて彼のことが分からなくなっていた。もう、このままここで死なせた方がよいと判断した彼は、母を置いて一人イギリスへ戻った。
 彼はその時60歳近くになっていた。養女のジェニファーは彼に結婚を勧めたのだが、もうその気になれなかった。彼女は、それじゃあ、私も30歳だけれども誰かを見つけて結婚して、子どもをたくさん産む。その子供たちの世話をおじさんにしてほしい、というのである。

 ☆海風:以上が、あらすじである。もう一人重要な登場人物として、上海での幼馴染のアキラ少年がいるのだが省略した。日本人アキラは上海でのイギリス人バンクスと同等の位置にいる。したがって、省略しても物語の意味付けに変わりはない。

 先ず引っかかったのは、題名(When we were orphans)の由来である。孤児に設定されているのは、語り手のバンクス、サラ、そしてジェニファーなのだが、それがこの物語のアリアドネの糸になるのか。
 迷った末に、孤児とはイギリスの孤児の暗喩でないかと思いいたった。つまり、インドの綿花を駆逐し、アヘンで築いた大英帝国の子でいたくないと。ガンジーが機を織っているのは単なる趣味ではない。
 だからバンクスは結婚せず、実子の代わりに孤児を養女としたのであろう。
 大団円のジェニファーのセリフは何なのか。妙な結婚宣言というか出産宣言であるが、もう孤児ではない、孤児にならないということだろう。だから過去形なのにちがいない。

 ロンドンの華やかな社交界はアヘンで作られていた。アヘンの子はバンクスだけではなかったのである。サラはその徒花の位置づけにちがいない。見かけばかりの嫌な性格だが。

 苦し紛れの途中に、大団円の場面で思い出したのが、フランス映画「河は呼んでいる」であった。実父がなくなり、親戚をたらいまわしにされて、父の隠した財産を奪われようとしていた少女オルタンスは、おじさんに助けられ、無事成年に達して相続を果たした。
 最後の場面で、彼女はおじさんに、あの家を買っていっしょに住みましょうという。運慮するおじに彼女は、まさか一人で嫁に行けと言うのでないでしょうね、と押し切って、二人並んで屋敷の方へ向かって行くハッピーエンドだった。

 もう一つは、「ドクトル・ジバゴ」である。パステルナークがノーベル文学賞だったのだが、ソ連政府の反対で授賞式に行けなくなり(フルシチョフの雪解けのフルシチョフはもう失脚していたか?)、新聞で大騒ぎになっていた。私は高校生だったが、図書室でふと本棚を見上げると、そこに「ドクトル・ジバゴ」があるではないか。もう、購入してくれていたのか。で、まだ誰も借りていない(当時は貸出カードで名前を記入していた)本を読むことができたのである。ストーリーは全部忘れ、後に映画になってそのテーマミュージックも人気があったが、見ることはなかった。悲劇は嫌いなのである。
 最後は、戦後になって、年取ったジバゴが地下鉄の階段を上がっていくときに心臓発作で倒れ意識を失っていく場面だった。ラーラは同級生だったと思うが、中年のブルジョアの恋人となって革命戦争のさなかにジバゴから去り、早くに亡くなっていた・・・と思う。記憶違いかも? サラからラーラを思い出したのである。

 それにしても、私立探偵はシャーロック・ホームズ以来大流行だが、当時の現実のロンドンで職業として成り立っていたのだろうか。不審である。


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